小学生の時、貧乏だった。
私が小学校に上がる直前、両親が離婚した。
私達3人兄妹の親権は母がとることになって、母子4人での生活が始まった。
私は3人兄妹の真ん中で、兄とは2つ違い、妹とは3つ違いで、まだまだ小さかったから、きっと苦労も多かったはずだ。
将来の夢を打ち明けると、母は応援して、ピアノ教室に通わせてくれた
母の両親は既に他界しており、頼る人もあまりいなかった。
なんとか手に職を持ち働こうと看護学校に入学した頃の母をよく覚えている。
専門学校の学生だった母は収入がなく、養育費だけでは生活できなかったため、奨学金や自治体の援助を得て生活していたと後から聞いた。
家族4人で身を寄せた借家は、すきま風もフリーパスで通り抜けるし、家の窓に着いていた鍵は、回転ネジ式のものだった。
今から20年ほど前とはいえ、ボロ屋といっても差し支えない家だったし、少し恥ずかしくて友達を家に呼んだことはなかった。
私が小学3年生になった頃、母は看護師として働き始めた。
子どもながらに母ががんばって勉強をしている姿をみていたので、母が看護師として働き始めたのはとても嬉しかった。
そうして少し生活に余裕が出てきた頃、私が「小学校の先生になりたい」と将来の夢を打ち明けたら、ピアノ教室に通わせてくれた。
余裕が出てきたとはいえ、まだまだ生活が大変なことも理解していたから、母が私の夢を応援してくれることがとてもうれしかった。
初めてのピアノの発表会。私は「制服でいいよ」と言ったけど…
そうして、初めてやってきたピアノの発表会の日に着たワンピースが、私の思い出の一着だ。
ピアノの発表会と言えば、可愛いドレスを来(着)て、ピカピカの服を着て、というのが定番だろう。
でも、当時小学4年生の私は気恥ずかしくてドレスを着てピアノを弾くという勇気が持てなかった。
「せっかくの発表会なんだから、フリフリの着たらいいのに」
そう言う母に、私は「制服でいいよ」なんて気のない返事をした。
当時通っていた小学校は、公立なのに基準服が指定されていた。
それはシンプルだが動きやすいものだった。
そんなつれないやりとりを数日繰り返した後、休日に母が「買い物に行こう!」と私をひとり連れ出した。
着いたのは車で1時間半はかかる、私の住んでいた県では一番栄えていた街だった。
「ポンポネット買ってあげるよ!」
そう言われた私の目はきっとキラキラと輝いていただろう。
言われた名前は、当時クラスで流行っていた子供向けのアパレルブランドのひとつだった。
エンジェルブルー、ポンポネット、メゾピアノ、デイジーラバーズ……流行っていたブランドはどれも可愛くて好きだったが、特に私が好きだったのがポンポネットだった。
触れるのが勿体ないと思うほどの、憧れブランドのワンピース
仲の良い友達もいくつか洋服を持っていて、ずっとうらやましかったものの、遠くに行かなければ買えず、洋服としては高い。
成長期真っ盛りの私ではすぐ着られなくなってしまうし、そんな高い洋服を買う余裕がないことは分かっていたので、話をすることはあっても、買ってほしいということはなかった。
それを買ってくれると言うのだから、私はその場で飛び跳ねたのを覚えている。
「それ着て発表会にでなよ」
お店に入って差し出したのは、私の好みのグレーと水色のチェックのノースリーブワンピース。
小さなリボンに着いている「P」のブローチも、首元の付け外しができるファーも、触れるのがもったいないと思ってしまうくらい輝いてみえた。
きっと普段から私が母に気を遣って、あれこれねだらなかったのを気にしていたのだろう。
そして発表会でドレスを着ないと言ったのも、気を遣ってだと思ったのだろう。
それまでは、母が私を大切にしてくれていることが私に伝わっていたから、私も母を大切にしたいと、なるべく困らせないようにしていた。
でも「困らせないこと」だけが大切にすることじゃないと気づけたのは、その時だったと思う。
母との会話で話題に上がるワンピースは、母にとっても特別な一着だ
母が選んでくれたワンピースを着て、ピアノを弾く私をみた母がどう思ったかは分からないが、発表会の後は「上手だったよ」と何度も褒めてくれた。
そのワンピースはその後もったいないと2、3回しか着ないまま、サイズが合わなくなってしまった。
私は、ピカピカの着られないワンピースを長いこと箪笥の奥に大切にしまっていた。
時が経ち、大学を卒業してついた仕事は学校の先生ではないが、あのころのまま、母は変わらず私の夢を応援してくれている。
母との会話の中で時々話題に上がるそのワンピースは、母にとっても特別な一着だったようでくすぐったい気持ちになる。
年に1回くらいの、母からの荷物に入っている似たような色や形のワンピースをみるたび思い出すのが、私の特別な一着、思い出のワンピースだ。