小学生の頃から高校3年生まで、わたしの夢は「高校の国語の先生になること」だった(もしくは作家)。伯母が国語の教員で、憧れていたのだ。
けれどすったもんだあり、なんでかわからないけれどわたしは看護学部に入学した。なんでかわからないけれど。

看護師という大変な職業にやる気がなく、国家試験も落ちた

看護学生は、それはそれはもう大変で、大変で、と聞いてみんなが思い浮かべるであろう大変さの5倍くらいは大変で、よくもまあ、この自分に甘いわたしが卒業できたものだ、という気持ちでいっぱいだったし、いまでも思う。
ところで、看護学生が大変と言ったけれど、看護師はもっと大変なのであった。
いま、このコロナ禍で働く看護師たちは、どれだけ考えても完全にはわかってあげられないほど大変だろうけれど、ちょっと待って、コロナが流行る前、みんながマスクをつけなくても、ソーシャルディスタンスなんて言葉が流行らなくても、三密なんてもんができなくても、そのまえから看護師ってとんでもなく大変な職業だった。

わたしはとにかく、やる気がなかった。と、言ったら失礼なのだけど、なんというか、将来こんな予定じゃなかった……という気持ちでいっぱいだった。
実はわたしは看護師の国家試験に一度落ちている。あまりにもやる気がなくて。
そのとき、次の年の国試まで、就職する予定だった病院の小児科で看護助手としてはたらいた。同期が看護師として働く中、わたしは看護助手をしていて、なんだかなあという気にならないこともなかったけれど、勉強しなかったわたしの自業自得なので、あんまり気にしていなかった。つもりだった。そして、わたしよりわたしのことを気にしていたのは、その部署の師長である、Qさんだった。
Q師長は、なにかと「困ってない?」「大丈夫?」と声をかけてくれた。わたしはそのたびに「はぁ」とか「まぁ」とか、なんだかへにゃへにゃした返事を返していた。

「出会えてよかったです」。Q師長の言葉がこころにジャギュンときた

12月になり、いよいよあと2ヶ月で国試だぞ、というタイミングで、看護助手を辞めることにした。楽しくないし。Q師長に辞めることを伝えて、最後の出勤日、その部署のみなさんに激励されながら、わたしは病棟を出ようとした。そのとき。
「小野寺さんに出会えてよかったです」
Q師長は、わたしにそう言った。わたしは、すごくとても非常に驚いた。
わたしなんて、誰かにそんなことを言われるようなニンゲンじゃないのに、という気持ちと、そんなにストレートに思いを伝えられるQ師長の姿勢に、なんだかこころがジャギュンと、きた。こんなにストレートにひとってものを伝えられるのか、と。

たぶん、あの頃のわたしに、必要な言葉だったのだと思う。ほんとうの夢である国語の先生にもなれず、同級生が看護師として働くなか、わたしだけ看護助手。どうでもいい、と強がっていただけできっと、自己肯定感は下がっていた。だから刺さったのだ。
いまでも思う、わたしは高校の国語の先生になりたかった、と。だけどそれはもう叶わない。だとしたら、せっかく手に入れたこの資格を使って、わたしも誰かのこころにジャギュン、とくることを伝えたい。
相手が必要としてることを必要なタイミングで伝えるのは難しい。それをきっと見極めていたであろうQ師長は、わたしの永遠の憧れだ。

わたしはもう、Q師長のいる病院では働いていないけれど、看護師という職業を続ける限り、わたしは絶対に永遠に越えられない、あのひとの、Q師長の背中を、こころのなかで追い続ける。
いつかまた会える日まで、ありがとうを込めてこのエッセイを書いている。