「憧れの人はだれ?」と聞かれて、どんな人を思うだろう。家族、友人、先生、芸能人……いろいろ思い浮かぶだろう。もしかしたら「いない」と答える人もいるかもしれない。いてもいなくても目標があれば、その人はその過程や達成によって輝けると思う。
私の憧れの人は2人いる。「え、2人?」と思うかもしれない。でも、その2人には共通点があり、その2人と出会ったから今の私がいる。

「努力家で人に寄り添える能力があるから、極めてほしい」

中学生の時、祖母の死をきっかけに医療の道に進もうと決心した。その人らしく生きることを支えたい、祖母のように寂しい最期を迎える人や大切な人を見送れなかった人を1人でも減らしたい、と幼いながら考えていた。
高校に入学し、1年の担任に将来の夢を聞かれ迷わず答えると、「お前には無理だ」と否定された。確かに、相手の感情を汲み取りすぎたり、どちらかといえば消極的で縁の下の力持ちといわれるタイプだったのだが、そこまで否定されるとは思わなかった。
「責任感が強いから、いつか心が負けてしまうと心配」とまでいわれ、外国語の成績がよかったこともあって語学系を勧められた。2年でも同様に語学系の大学を勧められ、進路相談や三者面談が苦痛だった。
ところが、3年になって本格的に進路を決定しなくはならなくなった時に3年次の担任から希望を聞かれ、「医療の道に進みたいが、今まで語学を勧められたから、自分でもどうしたらよいかわからない」と答えると、担任は時間をかけて相談に乗ってくれた。
「俺は医療の道に進んでほしいと思う。確かにおもてに出るタイプではないが、おもてに出さずとも努力しながら人に寄り添うことは医療の根源であり、その能力を持っているから極めてほしい」と受験が終わるまで応援してくれた。
専門学校の合格を伝えると涙を流して喜んでくれ、新生活が始まっても定期的に連絡をくれた。

私が働きたい場所は地域だ。専門学校の先生がきっかけをくれた

もう1人は専門学校で出会った教員である。専門学校では実践力を中心に学び、卒業後は病院へ就職することがほとんどだ。そのため、国家試験をパスすればよいわけで、各科目のテストでは高得点を目指す者がいなかった。教員もテストより実践や国家試験に重きを置いており、テストは再試験者がいない程度に取ってほしいということを何度も言われた。私は勉強や実習が苦手ではなかったが、漠然となにか物足りなく感じていた。
ある教員の授業で「望む場所で望む生活を送ることは容易ではない。医療者だけでなく家族や地域住民の力も必要な時があるんだよ」という言葉が、私が医療の道に進んだきっかけとリンクした。私が働きたい場所は病院ではなく地域だ、と気付いた。
それからはその教員の元に頻繁に足を運び、雑談はもちろん、進路の相談もした。話をしていくうちに大学へ行きたい、この教員のように地域で実際に働いてから生徒に医療を教えたいと思うようになった。
そして、大学に編入し、大学ならではの学習を経て、現在は大学院生として専門性を極めている。大学院卒業後は経験を積み、教員の道に進もうと考えている。

憧れの人たちは、私の心に寄り添いそっと支えてくれた

憧れの人といえば容姿や生き方、考え方といったその人を作り上げているものを指すのかもしれない。しかし、私にとっての憧れの人とは、人の心に寄り添い、そっと支えてくれる・後押しをしてくれる人なのだ。
口だけではいくらでも応援ができるが、それが重荷になる場合もある。2人の先生はさりげなく、でも出会ってから今も応援し続けてくれる心地のよい存在。そんな2人を心から尊敬しており、憧れの人でもある。私も誰かにとって心地のよい、原動力になれる人になりたい。
先生、いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。またお会いできる日を楽しみにしています。