短いほうが好きだと彼が言うから、髪を切った。15年ぶりのショートカット。ずっと伸ばしていた髪を切るほど、彼にかわいいと言われたかった。
でも、彼は待ち合わせに来なかった。よくあることだ。「約束や予定は嫌い。会える時に連絡するから、その時に都合が合えば会おう」。彼は仕事が忙しいのだ。わかっていたはずなのに。会えるかも、と思って丁寧にしたメイク。遊びにくるかも、と思って作った食事。彼が来なければ無駄になった。
なにもしないで待てばいいのに、会えるなら少しでも、彼の目にかわいく映りたかった。
会えた日の帰り際は「次はいつ会える?」の言葉を飲み込んだ。彼にとって都合よくいたかった。好き。これからも一緒にいたい。ただ、次に会う約束すらできない相手との将来を信じるのは難しかった。

彼がいないと満たされない。「食事に行こうよ」。突然の連絡

ひとりで過ごす淡々とした日々に、満足できたらいいのに。毎朝7時半に起きて、9時から19時半までは仕事。帰宅後は夕食と家事、読書、勉強、お風呂。時々映画を観たり出かけたり。そういう日々。
満たされなかった。ケーキや花を買っても他の誰かと過ごしても、彼がいないと足りなかった。例えば足のつかない広い海に月曜の朝、静かに飛び込んで、金曜の夜まで泳ぎ続ける。週末に彼と会ってはじめて、岸に上がってほっと一息つける、と思ったら会えなくて、「はい、岸までもう1セット追加です」。そういう感じ。
もう1セットで確実に陸と約束されるならまだよかった。あとどのくらい泳げば岸なんだろう。そもそも方向は合っているのかな。そろそろおぼれてしまいそうだ。秋の初めの涼しい夜。彼から急に連絡が来た。「今から食事に行こうよ」と。
急いでクローゼットの扉を開けてハンガーから外したのが、そのワンピースだった。半世紀以上前に仕立てられたワンピース。真っ白で花のレースがつなぎ合わさってできている。丈もラインも、私のために作られたみたいにジャストサイズ。短く切った髪のおかげで、胸元の切り替えとくるみボタンがよく見える。

「そのワンピース、本当に似合うね。それ着て結婚の挨拶に行く?」

神楽坂の屋上のイタリアンは、風が強くてうまく声が聞き取れなかった。なびく髪を押さえて、近寄って会話する。彼が口をひらく。「そのワンピース、本当に似合うね。かわいい。それ着て結婚の挨拶に行く?」「うん、そうする」。
驚かず、努めて冷静に答えたのは、さもあたりまえのようにそうしたかったから。この夜に何が決まったわけではないけれど、これからも一緒にいるつもりでいるのだという、ただそれだけが心の支えになった。これからどのくらい泳ぐかはわからなくても、灯台ができた。
1年後、一緒に住める状況になり、結婚が決まった。親への挨拶に着ていくのは、もちろん例のワンピース。神楽坂の夜に着ていたから、だけじゃない。実はこのワンピース、57年前、当時結婚したばかりのおばあちゃんがオーダーメイドで仕立てたものなのだ。離れて住む祖父母に会えないぶん、ワンピースを着て、家族写真を撮って送ろうと思った。

おばあちゃんが着たことのないワンピースに思い出ができた

おばあちゃんはこのワンピースについて話していた。結局機会がなくて、一度も着なかったと。お母さんも、サイズが違って一度も着ていないと。じゃあ、今日わたしが代わりに着て、結婚の報告と一緒に写真を送ったら?着たことのないワンピースにも、少しだけ思い出ができないだろうか。
「おばあちゃんに送るから、写真撮るね」。そんな口実で、彼とはじめて写真を撮った。写真のなかの私は、いつもよりかわいい顔をしていた。彼といるとき、私はこんなふうに笑うんだ。私といるとき、彼はこんなふうに笑うんだ。
私をここまで連れてきてくれたワンピースは、今日写真を撮るきっかけをくれた。一緒にいるときの幸せそうな顔を知って、ここまで来られてよかったと思わせてくれた。
おばあちゃんもお母さんも、どう育つかわからない私に、このワンピースをとっておいてくれてありがとう。本当にぴったりの、とっておきのワンピースでした。結婚式はしないから、これが私のウエディングドレスです。