憧れというのは難しい。
憧れるということは、自分にはないものを持っているからだ。
自分には手が届かない程遠い存在に惹かれて、「こうなりたい」と願ったとしても、その対象と自分との距離があまりにも遠くて絶望したりもする。

だから憧れ、というのは難しく時に厄介でもあるのだ。
私は誰かに「憧れている人は誰?」と言われると頭を抱えてしまう。
けれど、あえて誰かひとりあげるとすると、私より30歳年上の漫画家で随筆家の西原理恵子先生だ。

特効薬のように癒してくれたエッセイ。いつしか作者に憧れるように

私は自分に自信がない。
そしてとてつもなくネガティブだ。
10代後半から27歳の現在に至るまで、煮詰り過ぎて黒く焦げる程悩んで生きてきた。
それは自分が人と違うこと、人と同じように生きることへの苦痛にはじまり、そうして今現在は人よりも流す涙の多かった人生をこれからどうやって生きるかを、時に強火で激しく、時に弱火でいたぶるように煮詰めている。

けれど、そんな時に助けを求めるように手に取った西原理恵子先生の作品の言葉が、私の中にすーっと入ってきて、まるで特効薬のように癒してくれた。
それは「女の子が生きていくときに、覚えてほしいこと」というタイトルの、可愛い女の子がたたずむイラストが表紙のエッセイ本だった。

西原先生というと豪快なイメージが先行するが、決して順風満帆ではなく、義父の自死や旦那さんの病死……様々な苦難を乗り越え、今では「不幸は金になる!」と若いころに悩んだ時間や恋愛での失敗のことを創作活動のネタにし、笑う。
そんな先生が娘くらいの年齢の世代に語りかけるような作品だった。
その作品を読み、私は50代になった時こんな人になれたらいいなと強い憧れを抱いた。

「若い」という期間限定のステータスに悩まされる女の子は多いはずだ

今の自分はどす黒い鍋をずっと眺めて煮詰め続けている、これは悩みだ。
でも、皆が隠しているだけで、若いとはそういうものなのかもしれない。
「若い」というだけでひとつのステータスのように人は扱う。

カラオケでアルバイトをしていた時、パートのおばちゃんが生ビールを持っていくよりも、「若い」というだけで可愛くもなければ、ファンデーションを薄く塗っただけの私だというのにおじさんの団体客は手を叩いて喜んだ。
若さなんて、やれ東大卒や、慶応卒だと違って一生履歴書に書けるものではなく、自然と奪われてしまうくだらないものなのに。

若さは期間限定の輝きのように見える。
でも、その輝きの影で私も……きっと隠しているけれどどの女の子たちも、どす黒い中身の鍋をせっせせっせと煮込んでいる。

「若いね、いいね」と言われてどう返すのが正解か分からず微笑んだり、異性との結婚も、名字を奪われることも、子供を産むことも想像すらできないけれど「若いうちに子供だけは産んどきな」という言葉をかけられて愛想笑いを返したり、そういう中で。

年齢を重ねることは怖いけど、格好良さを増すことのようにも思える

けれどもその火を止めて、煮込んでいるものをやっとコンロから降ろせるようになったら、若さというのも失ってしまうのかもしれないけれど、こびりついた黒い汚れを、腕まくりしてタワシでゴシゴシと落として綺麗になったお鍋で今度は焦がさないように、若いうちに悩んだ分だけ火加減も分かったから、じっくりと煮詰める、単純そうで煮込むのが大変なコンソメスープのように。

そうして黒焦げのお鍋を煮詰めている、自分より20も30も年下の子に「食べな」とほうれい線も気にせず小皿を差し出し、ガハハと笑う、格好いい「おばちゃん」になりたい。

若さを失うことを人は恐れる。
少年漫画の悪役は、不老不死を求めてドラゴンボールを集める。
女の子のアイドルでは二十歳を超えたら「ババア」と呼ばれるらしい。
私も年齢を重ねることを怖いことだと思っていた。
今だって、「かがみよかがみ」に投稿できるのはあと二年かぁとぼやきながらキーボードを叩き、時がとまれと願っている。
でも西原理恵子先生の著作を読んでからは、年齢を重ねることは格好良さを増すことのように思えるし、年を重ねたからこそ若い世代のお尻を叩いて、過去の自分を励ますように、人を鼓舞できるんだと思い、ずっと憧れであり目標にしている。