ありふれた履歴書と十人並の容姿と無難な性格しか持ち合わせていない私が、就職活動という戦場で採った作戦は、「男になる」ことだった。
産休育休の取得率、産後のキャリア、ワーキングマザーへの理解、生理休暇の有無、女性管理職の割合、私はそれらを一切無視して、ワークライフバランスなどと甘えたことを言う女や一部の軟弱な男と違い、自分がいかに会社への忠誠心があり、どれほど仕事への情熱を持っているか、ということを滔々と語った。
私は男のように働く一方で、求められる場では女であることを利用した
結果としてこの戦術は功を奏した、という事実は、表向きには平等と雇用機会均等とダイバーシティを謳うこの国の企業が、実際には旧来型の企業戦士をいまだに求めている、ということを示唆していた。
女性活躍、女性が働きやすい職場、女性が輝く会社――これらの進歩的で耳触りの良い言葉は、言うまでもなく女性が活躍できず、働きづらく、輝けない社会があって生まれたものである(男性が活躍している社会に、男性活躍というスローガンは明らかに不要だ)。私は男になることで、この問題に煩わされることを無意識のうちに避けていた。
自分の宣言と会社の期待のとおりに男のように働く一方で、求められる場では女であることを利用した。女であることを利用する、というのは、ある意味で非常に男らしい考え方だったからだ。
たとえば、取引先の接待の場で、私は煙草を切らしたと嘘をついて、先方の課長だったか部長だったかの咥えていたそれを奪い取り、これ見よがしに一口吸って口紅をべったりと付けて返してやった。およそ1ヶ月後、難航していた大型の案件の決済承認が下りた。
同じグラスで飲み比べをして、肩を組んでコリドー街を練り歩いた。商談は進み、私は名前ではなく「テキーラの子」と呼ばれた。
もしかして、私のやり方が「他の女性の働きづらさ」を助長している?
私のやり方が、他の女性の働きづらさを助長している、と気付いたのは最近のことだ。男のように振る舞う私を仲間と見なしてくれる一方で、彼らはそうでない女性を厄介で面倒な女と認識する。
面談の場で、「一生結婚も出産もしない」と言い放った私は花形部署に抜擢され、出産のリミットを仄めかした同期は、先日退職が決まったと報告をしてきた。「ちゃんとした女性が欲しかった」と上司は言った。
男のように働けることが「ちゃんとしている」という意味だったのか、私は断定することができない。ただ、これまでなら賛辞として受け取っていただろうその言葉を、もはやそう捉えることはできなくなっていた。
「男のように働ける」という武器に頼りたくて仕方がないけど、言わない
今、二度目の就活をしている。天賦の才も目を惹く経歴もない私は、男のように働ける、という武器に頼りたくて仕方がない。私を雇い、頃合を見て管理職にでもつけておけば、会社の女性比率は上がり、女性登用に積極的だというイメージアップに繋がりますよ。私は産休でいなくなったりもしませんし、転勤もできます。
でも、それは決して言うべきではない。これから一度目の就活をする全ての女の子たちに、そうしなければ活躍できないと思わせてしまうような見本には、絶対になるべきではないのだ。
5年間も働いて、身に付いたのは企業戦士のマインドだけ。でも、それは他ならぬ自分自身のせいだ。自分に取り柄がないことを認められず、他の女性を蹴落とすために男になった。
そのことを悔いるより、これからの行動で贖わなければ、と思う。大人になった「女」として。