あの人に憧れて、私は口紅を塗るようになった。まだお化粧という言葉がくすぐったかった、十三歳の時の事だ。
当時の私は、父の仕事の都合でアメリカの高校に通っていた。現地の中学の定員が一杯で、急遽飛び級をする事になったのだ。
自分よりずっと大きい同級生に囲まれて、なんだか私は肩身のせまい学校生活を送っていた。極めつけはトイレでの時間だった。
真っ白な肌に吸い込まれそうな青い瞳、きらきらと輝くブロンドをなびかせた少女達が、いつも楽しそうに鏡を見ながらお直しをしていた。
「私の世界はここにある」。アメリカで日本のドラマを見る放課後
そのツンとした香水の匂いが充満する中、私も同じように鏡を見つめてみる。そこに映っていたのは、どうにも冴えないアジア人の女の子だった。少女の肌は日焼けして浅黒く、眉毛はハの字でふさふさだ。
この人が密集した空間の中で、一人だけポンッと弾き出されたような感覚に陥る。ぼんやりとしたわだかまりの様なものが、いつも心の中で揺れていた。
そんな私の唯一の慰めは、自分の部屋でひっそりと日本のドラマを見る事だった。アイフォンを両手でぐっと握りしめ、私は食い入るように画面を見つめる。そうすると視界が曖昧になって、自分が徐々に物語に溶け込んでいく気がしたのだ。
私と同じ肌の色をして、慣れ親しんだ言語を生き生きと話す登場人物たち。そうだ、私の世界はここにある。
親は娘の部屋からあんまりにも物音がしないものだからよく訝しがっていたのだけれど、とにかく、私はこうやって放課後を過ごしていた。
主人公を翻弄するサエコの唇。口紅の色一つで魅力的な女性に
そして彼女、サエコに出会った。もちろん物質的にではなく無機質な画面越しに。サエコは『失恋ショコラティエ』というドラマの登場人物で、石原さとみが演じていた。松本潤扮する主人公爽太の長年の思い人であり、彼に思わせぶりな態度をとり続ける魔性の女という役どころだ。
ストーリーの面白さもさることながら、私はこのドラマのある一点にくぎ付けになった。それはサエコの唇だった。
薄ピンクのぷっくりとした唇。ぱきっと大胆な赤い唇。アンニュイな微笑みをそこに浮かべてサエコは今日も主人公を翻弄する。
彼女は口紅の色一つでどんな女性にでもなれた。それも全部とびっきり魅力的な女性に。なんだか、まるでトイレの女生徒たちのようだった。そして彼女への憧れを日に日に募らせていった私は、とうとう化粧中の母にお願いしてみることにした。
「お母さん、私も口紅塗ってみたい」。学校の皆も塗っているし、とちょっとした照れ隠しも小さな声で添えた。すると母は嬉しそうに化粧棚を漁って、一本の口紅を取り出した。そうして、私が塗ってあげると言いながらそのキャップを外し、桃色の紅をゆっくりと私の唇の上にのせた。
初めて唇に触れた紅は思ったよりも硬くて、けれど、色が染み込む感触は柔らかく心地よかった。
「ナイスリップ」。予想外のことが起こって口紅は私の宝物になった
塗り終わると母はまあ可愛い、と私を鏡の前に立たせた。恐る恐る鏡を見てみる。瞬間、私はあっと思わず声をあげた。そこに映っていたのは紛れもなくサエコ、ではなくただの私だった。だが、いつもトイレの鏡で見ていた私とは明らかにどこかが変わっていた。
浅黒かった肌にパッと光が灯り、ハの字の眉も心なしか上がったような。その日一日中、私は胸の高まりを抑える事で必死だった。
そうして次の日、今度は自分で口紅を塗り、学校に行った。気分はさながらサエコのように。自分の中で沸々と新しい誰かが湧き上がってくるような感覚だった。すると今までにはなかったことが、私の周りで次々と起こるようになった。
例えば登校中、空の青さが新鮮な輝きを持って胸にしみ込んできた。アメリカに来て初めて道を聞かれた。ナイスリップ。トイレの鏡を見ていると横から声が真っすぐ私に飛び込んできた。びっくりして振り向くと、いつもお直しをしている女生徒のうちの一人が、ニコニコしながら私に話しかけてきていた。
こうして口紅は私の宝物になった。だから私は今日も塗る。気分はさながらサエコのように。