昔から鼻が敏感だった。
季節の変わり目や雨が降る時には「春の匂いがする」「雨の匂いだ」と誰よりも先に気づいていた。母が何を料理しているのか見ずに当てたこともある。
私にとって匂いというのは、生きる上や何かを判断する上で欠かせないものだし、匂いにまつわる記憶は深く心に残ってきた。初恋だった人と「2人は匂いが同じだね」と友達に言われた時のことは今でも覚えている。
秋の匂い、自然の匂い、太陽が照りつける匂い、誰かの香水の匂い、彼のワックスの匂い、タバコの匂い、前を歩く見知らぬ人が食べていたおにぎりの匂い。
私の記憶には色々な匂いが、大切にポケットにしまわれている。
先生の少し強い柔軟剤の匂いは、私にしか分からない特別な香り
そんな私が今でも街で匂いがするたびに振り返ってしまうのが、先生の匂い。
あれは柔軟剤の香りだった。よくある柔軟剤ではなくて、少し強めの香りだった。
高校1年生の4月。初めて先生と喋った。一緒にいた友達に「先生めちゃくちゃ良い匂いしなかった?」と聞くと、友達は「そう?」と笑って答えた。
後から知ったことなのだが、先生の匂いは私にしか分からなかったみたいだ。私にしか分からない先生の匂いは、特別だった。
先生の匂いは私にとってびっくりするほどに強くて、先生が廊下を通った後にはその匂いが廊下にこびりついていた。廊下の情景を浮かべるたびに脳内に香る先生の匂い。
一度友達に驚かれたことがある。ある日、教室を出ると先生の匂いがして、周りを見渡しても先生の影はなかった。ふと匂いがする方向に気づく。下の階だ。急いで階段を降りると、先生の後ろ姿が見えた。
さすがに引かれそうで声はかけなかったが、横にいた友達には引かれてしまった。私に引いたというよりかは、私の鼻に引いたといったところだろうか。今も1番の親友なので、鼻に引いたのだろうと信じることにする。
先生の匂いに振り回された高校生活を終えた今でも振り回されている
私は先生の研究室が好きだった。研究室で勉強をしていると、流れる風の香りとともに、先生の匂いが私を覆う。深く深呼吸をして、体中にその匂いを巡らせる。落ち着く匂いだった。
そんなある日のことだった。用事があって休みの日に学校に行くと、ふと、いるはずのない先生の匂いがした。
「まさか」
そう思いながら研究室に近づくと、曲がり角でばったりと先生に会う。今日は良い日だ。
それからだった。休みの日に校舎の外を歩いていて匂いがすると、外から2階の研究室に向かって先生の名前を呼ぶようになった。
窓からひょこっと顔を出す先生。今日は良い日だ。
そんな匂いに振り回される単純な日々を過ごした高校3年間。4年経った今でも振り回されている。
新宿駅の改札を降りると、ふと先生の匂いがした。
「あ、あの匂いだ」
急いで振り返ってみるが、そこにいるのは怱々と行き交う東京の人達だけだった。
「いるわけないか」
自分に言い聞かせながらも、匂いがするたびにやはり周りを見渡してしまう。
そんなこと考えながら、校舎を見上げた。
4年ぶりに高校を訪れて、廊下に漂う懐かしい匂いを嗅ぎながら、研究室の扉を開ける。
先生の匂いだ。