私の忘れられない香りは、ムスクの香りだ。
それは、夜遊びとセックスの香り。

彼女が私を抱きしめてくれた瞬間、あっさりと恋に落ちた私

私には、大学1年の時から好きな子がいた。私は女子で、その子も女子だった。
運動神経が抜群に良く、物知りな子だった。些細なきっかけから仲良くなって、一緒にいるようになった。彼女は私に、知らなかった世界を教えてくれた。彼女が私の家に遊びに来た際、ふざけてじゃれあっていた時に、彼女は不意に私を抱きしめた。その瞬間、私はあっさりと恋に落ちた。

好きになってしまったら、もう止める事は出来なかった。友達だと分かっていたけれど、それからしばらくして、私は恋心を抱えきれなくなり、彼女に告白した。
結果、私は彼女と付き合う事は出来なかった。彼女は私に、「あなたの事はとても大切だし唯一無二の存在だけど、自分には恋愛感情が分からないから、人と付き合う事自体が出来ない」と言った。

彼女の言った事を、頭では理解したものの、人生で初めて自分でも制御できないくらいの恋心を抱いた相手を、簡単にあきらめる事は出来なかった。
お互いの心の深い所に触れたからか、彼女とは今までよりもっと仲良くなった。彼女が私と距離を置かないでいてくれた事が嬉しかった。

彼女の代わりを見つけられないまま、歪んだ恋心と劣情を弄ぶように

でも、恋心を諦める事は出来なかった。私の場合、厄介な事に、恋と肉体関係はイコールのものだった。私は彼女に、なけなしのアプローチとして、恋人がいらないなら、たまに訪れる劣情をぶつけあう関係でも良いと伝えた。
でも、彼女は私を抱いてくれなかった。それも出来ないのだと言った。彼女の中には恋心はおろか、劣情すらも湧いてこないらしかった。

彼女からはいつも、良い香りがした。女の子らしい、甘い香りだった。
私は次第に、彼女に代わる好きな人を見つけられないまま、歪んだ恋心と劣情を弄ぶ様になった。

大学2年の、暑い夏の事だった。私は夏中、一人旅の為にベトナムにいた。そこで、1つ上の男の子と出会った。彼は偶然にも、私が好きな女の子と同じスポーツをやっていた。
ある暑い夜、酒を飲んで酔った彼と、恋愛の話になった。お互いに初恋の相手を忘れられないでいる事が分かり、その話題でひとしきり盛り上がった後、自分が未経験であることを暴露した私に、酔った勢いにまかせて彼は、涼しい顔をして言った。

今時、漫画でも言わないようなセリフに、私は「いいよ」と頷いた

「俺が処女奪ってやるよ」
今時、漫画でも言わない様な歯の浮く台詞を言われ、やや面喰らいながらも、私は酔ったふりをして、頭で考えを巡らせていた。これはある意味で、良い機会かも知れないと思った。
熟れた恋心を壊してくれる様な情熱的な何かを、私はずっと切望していた。
だから私は頷いた。「いいよ」と言った。そして、部屋の電気を消した。
それは、経験してしまえば何てことない事だった。漫画や映画で描写されている様な、我を忘れる様な快感も、ほとばしるような愛情も湧いては来なかった。ただ形式的に淡々と進められ、与えられる刺激に対して、条件反射的に体が反応しただけだった。

全て終わった後、彼はポツリと呟いた。
「俺の事、好きになるなよ」と。
どこまで自意識過剰な人なんだろう、と今度も面喰らいながらも、私は、
「好きにならないよ」
と言った。彼に抱かれている最中も、ずっと彼女の事を思っていたとは、申し訳なくて彼には言えなかった。

行為中、彼には申し訳ないのだが、私は彼の背中越しに、彼女の面影を思っていた。
でも。彼からは、雄々しいムスクの香りがした。その香りだけが私に、今私を抱いているのは彼女ではないのだという事実を、突きつけていた。

思い出として購入した香水を身に纏って、真っ先に彼女に会いに行った

ベトナムから帰る直前、ベトナムの雑貨屋で偶然、彼の香水と似たようなムスクの香水を見つけた。私はそれを、ひと夏の熱帯夜の思い出として購入し、帰国した。そしてその香水を身に纏って、真っ先に彼女に会いに行った。

彼女への思いを上手く消化できないまま、秋になった。
私の恋心を全て知っており、何かと相談に乗ってくれた友達と遊びに行った時も私は、空港で買ったムスクの香水をつけていた。ムスクの香りは、あの夜の事を思い出し、私の寂寥感と、それに伴う劣情を誘った。

私は、自分の纏うムスクの香りが、友達のライダースジャケットに移る位ぴったりとくっついて、夜の海沿いを散歩した。そして、いつの間にか肩に回された友達の腕の温もりを感じながら、日付の変わったみなとみらいで、観覧車をいつまでも眺めていた。
私の体からも、友達の体からも漂うムスクの香りは、潮の香りと混ざり合って、漆黒の海に溶けていった。
その日私達は、人生で初めて終電を逃した。
今でも、街中でムスクの香水をつけた人とすれ違うと、あの時の事を思い出す。

永遠に忘れられないムスクの香りは、叶わなかった恋の香りだ

その後私は、あるコンテンツにドはまりし、推しのキャラクターに自分の全愛情と全財産を注ぐ事になった。お金をかければかけるだけ、供給という形で返ってくる合理性を知った事で、誠に現金な話だが、私は彼女への恋心をすっかりなくしてしまった。今では、完全に友達に戻った彼女に、自分の推しへの愛を語り尽くしている。

それでも、あの頃の事ははっきりと覚えている。
どういう訳か私は、あんなに恋焦がれていた彼女の、女の子らしい甘い香りよりも、ワンナイトラブをしただけの彼がつけていた、雄々しいムスクの香りの方が忘れられないのだ。
彼とは一応、SNSで繋がってはいるが、連絡を取り合ったりはしていない。彼とは今後、二度と顔を合わせる事はないだろう。彼にとっても私にとっても、お互いは、ただ一夜を共にしただけのどうでも良い存在であり、あの時はお互いがお互いに、忘れられない相手を思って、肌を合わせていた。

それだけのはずなのに、私はムスクの香りがどうしても忘れられないのだ。
きっと私は永遠に、ムスクの香りを忘れる事はないだろう。それは、叶わなかった恋の香りとして、若さ故の過ちとして、そしてどうしようもなかった寂しさとして、私の記憶の中に永遠に残り続けるのだろう。
今このエッセイを書いている瞬間も、私の手首につけたムスクの香水が、かぐわしくむせ返る様な香りを放ち続けている。