匂いを言葉で表現する事は、かなり難易度の高い事だ。
表現するとするならば、その匂いのイメージや匂いの強弱、あるいは物の名前を使って言い表せるかなと思う。
けれど、例えることができる物が分からなければ、その匂いはいつまでも自分の中に残る夢の様な存在なんじゃないかと、ぼんやり思うのだ。
先輩の可愛い車に乗りたくて、思い切って助手席に立候補
あなたの服の匂いが好きです、と伝えたことがある。
相手は同じ大学のサークルの先輩。
初めは顔見知り程度だったけれど、何かのきっかけで、学校ですれ違った時に挨拶するようになってから仲良くなった。
先輩は、自動車を勉強する学科に所属している人で、自身の愛車で通学している根っからの車好きだった。愛車はマツダのロードスター。ルーフの部分とボディのコントラストが可愛くて、(車に)一目惚れをしたのを覚えている。
先輩はよく、サークルのメンバーを隣に乗せて家に送るドライブを開催していた。
その時もまた、先輩が「誰か今日、隣に乗らない?」と聞き回っていたので、思い切って乗りたいです!と迫った。
驚かれたけれどOKをもらい、サークルの後に車に乗せてもらった。可愛い車に乗せてもらったという興奮(?)と、実は先輩と二人きりになるのはこれが初めてだと気付き、緊張で感情が忙しかったことは覚えている(何を話したかは忘れた)。
秋の夕暮れ、日が沈みかける時間帯で少し寂しさを感じる雰囲気の中、ありきたりだけれど、車から見る通学路はいつもと違う景色に見えた。
匂いが好きだと伝えると、先輩は「柔軟剤の匂いかな」と笑った
このドライブをきっかけに何度かデートを重ね、ほどなくしてお付き合いをすることになった。
初めてハグをした時、ふわっと香りを感じた。形容しがたい、でも自分の好きな匂いがした。
気付いた時には「先輩の匂いが好きです」と伝えていた。
すると先輩は「それは柔軟剤の匂いかな」と笑った。
匂いに似合う、笑った時の顔がとても素敵で好きだった。
結局その先輩とは半年も経たない内に別れることになった。
単純に、合わなかった。別れた理由はこの一言に尽きる。
好き、というよりも、ずっと緊張してばかりで、空回りしている自分が嫌だった。先輩・後輩の関係の頃の方が楽しかった、と思ってしまった。
別れ話をした時にそれを伝えたら、先輩は否定をしなかったので、きっと同じ気持ちだったんだろうなと思っている。
それでもしばらくは、先輩のことを、先輩の匂いを、忘れることが出来なかった。
初めてのドライブで頑張って話題を広げて会話をしたり、運転中に話しかけるのは迷惑なのかなと思って悩んだりした日々は、どうしても楽しかった。仲良くなりたい、と思った気持ちは、自分の中の思い出としてきちんと残っていた。
そんな恋があったな、と時に振り返るくらいで丁度いい
時折、先輩と同じ匂いの人とすれ違うことがある。
思わず後ろを振り返ると同時に、ぶわーっと、どうしようもなく懐かしい気持ちが押し寄せてきて、切ない気持ちでいっぱいになる。
ちゃんと、恋だった。
上手くいかなかったのも含めて、あれはちゃんとした恋だった。
すれ違っただけの知らない人でさえも先輩と同じ柔軟剤を使っているのだから、きっと
ドラッグストアに行って柔軟剤のテスターを一通り嗅いで探したら、見つかると思う。
けれどもし、先輩の匂いの正体が何かを知ってしまったら、先輩との思い出をいつでも取り出せるようになってしまう。でも、それは、相応しくない。
そういえばそんな恋があったな、とふとした時に振り返るくらいで丁度いい。たまに夢に出てきて思い出し、しばらくしたら忘れている。それくらいの距離感の思い出として、自分の中に残って欲しい。
どうか、このまま、あの匂いは知らないままでいたい。