忘れられない匂い。それはパリですれ違った男性の香り。
初めてのヨーロッパは、初めての一人旅で、大学の卒業旅行だった。未経験の異世界に小心で人見知りの私は、楽しみはあるものの緊張と不安でいっぱいだった。
航空路はドバイ経由が一般的だが小心ゆえ、あえて北京経由で向かった。機内は中国人をはじめ黄色人種だらけだったが、見慣れた姿に心からほっとして、2週間の滞在先であるパリへ向かった。
もし、今死ぬなら最後に何をしたいか。それはパリに行くこと
私は小さいときから大人になりたくなかった。「大人になるのは仕方ないこと」と飲み込められなかった。成長すればするほど、大人になってしまうという焦りがあった。
義務教育までは皆と合わせていればそれなりに前に進められ、勉強すればその分の結果だったが、大学受験はそれまで通りにはいかなかった。それでもなんとか自分好みの大学を見つけ入学したが、社会人になる手前の大学4年次は就職活動を一切しなかった。
大人になる直前まできて、私は何もしたくなかった。夢も目標もやる気も生きる気力も何もなかった。ただただ季節だけが過ぎて、大学卒業の時期になった。死んでもいいな、そんな心境だった。もし今死ぬなら最後に何をしたいか。一つだけあった。それはパリに行くことだった。
昔母が若いころ、半年かけてヨーロッパを旅したことがあり、その中でもパリの話は魅力的だった。母の写真に写っていたあの建物はまだあるのだろうか、話していたあの教会は息をのむほど美しいのだろうか、確かめたくなった。
それだけでなく、パリの匂いはどんな匂いなのだろう、授業そっちのけで思いをはせた資料集の中の『ナポレオンの戴冠式』の絵はどれほどなのだろう。小さな疑問の積み重ねは無意識のうちに興味と憧れに変わっていった。
身体に電気のような衝撃が走り、匂いを身体で感じる官能的な体験
パリの匂いは黒人の香りに似ているなと思った。お香のような感じもするし、香水が混ざり合ったような感じもする。心地よい甘い香りだった。
空港だっただろうか、無事の到着にひとまず安心し深呼吸をした。目をつむってパリの匂いを体内に取り入れていたそのとき、一瞬、身体に電気のような衝撃が走った。男性の整髪料の香りだ。中年男性がつける整髪料の香りとその人の匂いが混じった感じで、嗅いだことがあるようでない香りだった。私はこの匂いが好みだったのか。初めて匂いを身体で感じた。
今思うとそれは官能的に思える。けれど当時はとにかく刺激的だった。自分の身体にこんな感覚があるのかという驚きと、人間という生き物である面白さを知った。動物的なその感覚に、人生に無気力だった自分の目が覚めた気がした。人生はまだ面白いものなのではないか、まだ見ぬ可能性だらけなのではないか。
大人になるのが想像できず、とにかく怖かったけど、それでいいのだ
滞在中は毎日、外に出て観光地を巡った。母の写真に写っている建物は存在していたし、その前に立っている街灯もそのままだった。ある教会のステンドグラスは、その美しさにまさに息をのんだが、人が集まる場所なのになぜ冷える石造りなのだろうかと冷たい居心地の悪さも感じた。
あれから5年は経った。パートで働いたり、会社員にもなった。自分を好いていてくれた人はこれから旦那になる。精神が年齢についていかず苦しんだ時もあったが、もうこれでいいのだと思えた。
私は多分、想像するに、今の自分に生まれるまでの人生で大人になる経験をしていないのではないかと思う。大人になるのが想像できなかったし、大人になるのがとにかく怖かった。でもそれでいいのだ。子どもの精神でこれからも大人になっていくのだ。どんなに情けない姿でもこの人生を歩まないと終わらないし、次の人生も同じことになる。
官能的な匂いは私には必要ない。愛おしい匂いがいつもそばにある。ただ忘れられない匂いは後にも先にもあの香りだけだ。