私は育児に追われる専業主婦だ。1歳半の息子にご飯をたべさせ、おむつを変え、絵本を読み聞かせる。合間に家事をすると、瞬く間に一日が終わる。私と子どもの閉塞的な暮らし。
夫以外で、最後に大人と話したのはいつだったか。コロナ禍のご時世、致し方なしと諦観を覚える毎日。それでも、健やかに育つ息子を見ると、良くがんばっていると思える。
すごいでしょう、と自慢したい私がいるが、親にさえ会うことが躊躇われる今、とても難しいことになってしまった。
出産間近の頃、非日常だった感染は、あっという間に日常に近づいた
酷く記憶に残っている会話がある。
私は20名にも満たない小さな会社の事務員をしていた。出産予定日の8週前に退職する予定で、それが間近に迫った頃だった。
冬にしては穏やかな日差しの午後。隣の席に座る年嵩の経理さんと書類整理をしていた。やたらと紙の多い会社で、手を動かしながら彼女と話す時間は、これまでたくさんあった。仕事、趣味、ニュース。入社時からお世話になっていた彼女は、いつも穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「ダイヤモンド・プリンセス号、なんだか大事になってきちゃったね」
当時、国内でもコロナウイルス感染者がぽつぽつと出始めていた。普通ではない病気、と認識されたものの、まだ遠い話のはずだった。豪華客船、船上隔離。日常で関わりもしないような世界から、非日常が近づいてくる。
何事もなく収束すればいいけど。続いた彼女の言葉に心から同意して、けれどもそれは今も叶っていない。
それから。妊婦検診へかかる度に、感染対策が厳重になっていった。消毒と検温。診察室に入れるのは妊婦、患者のみ。付き添いの人は待合室ではなく、玄関の椅子で待つこと。
私は予定された帝王切開だった。その時だけは万一のために、夫のみ院内で待機が許された。
私が死ぬようなこともなく終わり、彼は無事に生まれた子どもとガラス越しで10分対面し、速やかな帰宅を促される。加えて、すでに入院中のお見舞いが全面禁止となっていたので、意気揚々と育休に入っていた夫は肩透かしを食らっていた。会えないのか、仕方ないとは思うけど。後に聞いた感想である。
外で遊んでも同年代との交流はできず、静かに親子2人で遊ぶしかない
息子が動かないくらい小さな時は、まだよかった。外出する必要がなかったからだ。外気浴なら近所を散歩すれば事足りる。買い物もネットスーパーで済ませた。コロナが怖いから、という以上に、産後の体力が戻っていないという理由が一番にあった。
しかし彼が歩き出すと、そう言っていられなくなる。インドア派な両親から生まれた割にお外遊びが好きなようで、彼は小さな指をぴっと伸ばして玄関に向ける。1日に何度も。
面倒だが、我が子のため。重い腰をあっさり上げて、私は息子と毎日外へ行くようになった。
公園では2メートルのソーシャルディスタンスを容易に保てる。密室と真逆な空間で安全だ。たまに似たような出立ちの親子と遭遇して、子どもの年齢が近いと話しかけたくなる。我慢して黙礼に留めているが、少し不満を感じている。コロナ禍だから、仕方がない。
児童館では遊び場に仕切りがされ、離れて静かに遊ぶようにと周知されている。感染対策がしっかりしている代わりに、同年代との関わりという児童館へ求める役割が消失していた。
おもちゃを借りて、親子2人で遊ぶ。これくらいなら、家でもできることでは。
いや、持っていないおもちゃがあるし、遠目でも他の子どもが見られるのなら息子にとって良い刺激なはず。事態が収束すれば、誰かと遊べるのに。
思い描いた生活を取り戻すその日まで、最善と信じる選択を積み重ねる
息子は、親以外の顔をまともに見たことがない。だって皆、いつでもどこでもマスクをしている。人間は顔が半分覆われている生き物。これを普通の事と認識しているだろう。生まれた時からそうだったから。
この2年で、日常がすっかり変わってしまった。児童館で保育士さんに相談したい。他のお母さんと愚痴を言い合いたい。帰省してじいじ、ばあばとなった親に息子を会わせたい。
当たり前にできなくなった、大きなお腹を抱えながら思い描いていた生活を、早く取り戻したい。その日まで、最善と信じる選択を積み重ねる。
異常な日々を踏みしめ、子育てをする全ての人へ。自慢して良いし、誇りに思って欲しい。この息苦しい世界に負けず、大切な存在を守っているのだから。