可愛いと言われ、愛されて育ってきた。
父は私が物心がつく前に離婚しており、顔も知らず、名前を知ったのは自分が結婚し戸籍謄本を発行した時だった。
しかし、私はそんな父に顔が似ているらしい。
らしいというのも、私は父に会った事もないし、見た事もないので真相は分かりかねるのだが、幼少期母の友人に何気なく言われた事が未だに心にわだかまりを残している。
悪気なく言われる「お母さんに似てないね」の言葉に傷つけられた
母は美人だ。
親族の情けで可愛いと言われてきた私とは違う。
「お母さんに似てないね」
そんな言葉を吐く人達は悪気なく私に笑いかけたが、子供だった私にはそれが重くのしかかり、次第に母に似ていないこの顔を恨む様になった。
自分の顔を恨んで数年、類いまれにも私の顔を可愛いと形容する男性に出会った。
初めこそ不思議な人がいるもんだな、と本気にはしていなかったが、時間が経つ毎に彼の言葉が雪を解かす様に染み渡り、いつの間にか私の心のわだかまりまでもを解かしていった。
雪は解けて春になる。
そんな季節が待ち遠しくなる頃、私達は結婚した。
恨んでいたこの顔を好きと言ってくれる彼を信じようと思った。
彼を信じようと思った自分の気持ちを信じた。
それはきっと間違っていなかったと思う。
しかし、ソレはまた私の元へやってきた。
お腹の中に新しい命を授かったのだ。
エコーを見て、どちらに似ているだなんだと楽しく話していたのも束の間。
私に似てしまったらどうしよう、そんな不安がさざ波の様に押し寄せて来た。
どうか私に似ないで欲しい、そう願い生まれた娘は誰から見ても夫似の子供だった。
心の底から安堵した。
娘には私の様な思いをして欲しくない、このまま夫の遺伝子をそのまま受け継いでくれと神にもすがる様な気持ちだった。
心に訪れた春。私は、自分に似た娘を「可愛い」と思うことができた
子供の顔は毎日変わるとどこかで聞いたことがある。
娘も例外ではなく、本当に毎日顔が変わっていった。
そのまま赤ちゃんの様な顔をしている日もあれば、少し大人びた顔をする日もある。
その中で私に似ているかもしれない、という日が何度か訪れた。
私は娘の顔を見て、何を思うのかと怯えていたがそんな感情は杞憂に終わった。
私に似た娘を可愛いと思えたからだ。
心に完全な春が訪れた。
娘を眺めて可愛いと思うのは、自分の顔を褒めているみたいで何だかむず痒くなる。
しかし、これが本当に雪が溶けたという事なのだろう。
どうか、娘には私の様な思いをせず健やかに育って欲しい。
顔に何か囚われず、そんな事を考える暇もないくらい愛され、いずれ私の様に誰かを信じ、私達夫婦以外からの愛を貰い巣立っていくのだろう。
母が全てだった私にとって、似ていない事実が不安を引き起こしていた
ふと、何故私は自分の顔をあそこまで恨んでいたのか考えた。
顔の美醜、というよりは恐らく母に似ていなかった事がショックだったのだと推測する。
父がいない私にとって、母が全てだったのだ。
そんな母と似ていないとなると子供の私には親子関係を感じられるものがあまりなかった様に思える。
母自身は十月十日私をお腹の中で育て、壮絶な出産を乗り越えたから自分の子供という認識はあるのかもしれないが、胎内記憶もない、生まれた瞬間の記憶もない私にはそんな気持ちがわかるはずもなく。
きっと、不安だったのだろう。
目に見える証明もなく、母にも似ていないという事実が。
親の立場になってみると、どちらに似てようが自分の子供には変わりないのだが、幼心というのはとても扱い辛く繊細だ。
その心をどう包んであげられるか、それが今後娘にも私にも課題となっていくだろう。
その日が訪れたら、次は私が娘の雪を解かせます様に。