秋に入るとキンモクセイの匂いで話題になる。
SNSではキンモクセイにまつわるエピソードが溢れかえる。
とあるバンドのボーカルが、
「おれだけの青春の匂いだと思ってたら、みんな好きだった金木犀」
とツイートしていた。
私も私だけの思い出の匂いだと思っていた。
2人で出かけたいと提案したら、先輩はクシャっと笑い快諾してくれた
大学1年生の頃、バイト先の先輩を好きになった。
いつも静かに黙々と仕事をこなす先輩は、たまに見せる笑顔が素敵で、あまり話したことはないのだけれど、シフトが被ると心の中でガッツポーズを決めていた。
バイト先の人たちと飲み会に行ったことをきっかけに先輩と仲良くなった。
勇気を出して2人でどこかに出かけたいと提案したら、クシャッと笑って、でも少し照れながら快諾してくれた。
水族館、ラウンドワン、色んなところに行った。そのときは告白する勇気はなかったけど、2人でいられただけで幸せで特別な時間だった。
デートの日まで何を着るか、どんな髪型、メイクにするか、先輩に「可愛い」と思ってもらうために試行錯誤していた私は完全に「恋する乙女」で、悩んでいる自分すらも愛おしかった。
コート越しに包まれるキンモクセイの香りは、抱きしめられているよう
冬に入る少し前。
バイト先の飲み会のあと、2人でカラオケに行った。始発まで2人で盛り上がった。
カラオケから出ると外はかなり肌寒くて、ニットにデニムだけの私はブルブルと震えていた。
「めっちゃ寒いですね~」なんて言いながら2人で駅まで向かっていた。
すると、先輩が着ていたコートを脱いで私に着せた。
「俺家近いから。これ着て帰っていいよ。次のバイトの時にでも持ってきて」
いくら家が近いとは言え、先輩も寒いはずなのに、その優しさにキュンとして、全身から幸せが溢れそうだった。
私には少し大きい先輩のコートは、キンモクセイの香りがした。
コートは私の身体を包むように、キンモクセイの安心する匂いのせいかまるで先輩に抱きしめられているようだった。
家についても脱ぐのが名残惜しくて、しばらく着ていた。
返すまでの数日間、何回も羽織っては、なかなか消えない先輩のキンモクセイの香りに包まれていた。
その後も数回2人で出かけた。
コートを着た日からキンモクセイの匂いに気づくようになっていった。
先輩からほのかに香るキンモクセイが心地良かった。
きちんと一線を引いてくれたから、あの匂いに青春を思い出す
あれからもう5年経つ。
先輩は私より一足先に大学を卒業し、社会人をしているが、今では音信不通だ。
私は先輩と付き合うことはできなかった。
一度告白したが、仲のいい後輩にしか思えないと言われ、フラれてしまったのだ。
告白したあと何度か先輩の家に泊まりに行ったが、男女の関係にはならず、文字通り「泊まった」だけだった。
私に魅力がなかったからなのかもしれないが、もしも抱かれていたら、キンモクセイの匂いを嗅ぐたびに、嫌悪感に苛まれていたかもしれない。
何もされなかったからこそ、簡単に忘れられる存在ではなくなってしまった。
簡単に忘れられなくなってしまったけど、酸いも甘いも経験した今、きちんと一線を引いてくれた先輩を好きになって良かったと思う。
秋になると近所の家のキンモクセイが咲いて、あの匂いがする。
そして先輩に恋していた自分を思い出す。
未練ではない、青春としての思い出が。
大学1年生ながら、純粋無垢に先輩の仕草や言葉にときめいては、友人に惚気ていた。
あのときの私は幼くて、眩しいくらいにキラキラと輝いていた。