彼女は戴帽式に出席することにした。本番はもう少し先にはなるが、参加者は決定した。
このパンデミックの中、あの帽子を被るということは、ウイルスと戦うことを決めたということになる。つまり彼女は、私たちは覚悟を決めたのだ。
ロウソクを頼りに会場内を歩く姿は、まるで今の世の中そのものだ
両手に収まるくらいのロウソクが歩く度に揺れる。昔は本物の火だったそうだが、今はライトになった。それでも火が揺れているように見える度に、今ならまだ引き返せるのではないかと勘違いしそうになる。
それでいて、火が消えそうになると、慌てて歩く速度を落として胸を撫で下ろす。ライトだから燃え移ることはないのに。
この広い会場の中で、私たちはロウソクを頼りに会場内を歩くことになっている。まるで今の世の中そのものだ。暗闇の中でぼんやり光を探して、正解を求めて歩き続けている。
七歩。あと七歩進むと私の立ち位置になる。何回も練習して自分の立つ位置を覚える。
彼女もそうだ。彼女の場合には立ち位置だけではなく、学生代表としてマイクを持ち、実習に対する意思と医療従事者になる決心を表明しなければならない。彼女のスピーチはどんなものになるだろうか。
あと六歩。私と彼女が出会ったのは約一年半前。出身地や性格も異なる彼女のことを私は一人の人として尊敬していた。いつも誰に対しても笑顔を絶やさず、努力を怠らない素敵な人だ。
実は戴帽式当日は彼女の誕生日でもある。無論、プレゼントを持っていく。中身は開けてのお楽しみである。
どの医院の「香り」にも染まらないように。祈りをプレゼントに込めた
あと五歩。どの病院にも独自の考え方や個性がある。その全てが自分の考え方と同じである医院はきっと存在しないだろう。医院だけでなく、企業や学校にも共通して言えることは人間関係の悩みだと思う。
それを解決するために転職をする人もいれば、己の良さを押し殺して周りの色に染まっていく人もいる。きっと彼女は後者だ。
あと四歩。香りは自分だけが認識できて、他人には認識できないものだと思う。しかしいつの間か、他人も香りが分かるようになる。そうすると自分だけのものであったはずの香りは空気を伝い、他人へ流れてしまう。自分と他人の境界線がなくなってしまうのである。
公園で一人貸し切り状態で遊んでいたら、上級生が大勢やってきて気まずさを感じて、公園を後する時の感情と似ている。
あと三歩。彼女はいつも一歩下がって全体を見て行動している。ガツガツと前に出るタイプではない。そして心中にいるもう一人の私はこう言うのだ。彼女はもっと自分の意見を伝えるべきだと。
一方で、協調性こそが彼女の良さであると考えている私もいる。そんな私の中にいる二人を従えて彼女の誕生日プレゼントを買ったのが一週間前。おしとやかな彼女に似合うものを選ぶ自信は初めからなかった。
それでもどの医院の「香り」にも染まらないように、自分らしさを忘れないようにと、祈りを込めてディフューザーを手に取った。彼女は喜んでくれるだろうか。
あと一歩。未知の世界へ飛び出す勇気を持たなければならない
あとニ歩。彼女には本当にお世話になった。学校内の実習や試験も、彼女がいなかったら乗り越えられていないだろう。私たちはいつか学校を卒業してそれぞれの道を進む。その時に私は、お互いに何かあれば連絡を取る関係であり続けられたらいいなと思う。
それと同時に、私は彼女に何かが起こった時や、目の前からいなくなる現実が訪れてしまったらと考えてしまうのだ。昨日会った人と今日も会える幸せ。少し前まで当たり前だったことを幸せと呼ぶ世界で、私たちはナイチンゲール像の灯を受け取るのだ。
あと一歩。未知の世界へ飛び出す勇気を持たなければならない。私たちが羽ばたく時、世界は変わっているだろうか。彼女にも、私たちにも、みんなにも、希望の溢れる日々が訪れて欲しい。
私たちがどんな「香り」にも染まらないことを願い、ロウソクに手を伸ばす。ロウソクが消えてしまったら、もう私たちはもとには戻れない。そんな気がするのだ。立ち籠める匂いは私たちを強くするはずだから、あのディフューザーも彼女に自分らしくいることの大切さを伝えてくれるだろう。
私はこの瞬間を匂いを忘れない。もうすぐ訪れる本番とそれに続く日々が輝かしいものになることを願っている。