夏の終わり、職場でお花屋さんとの合同イベントがあった。会場準備で動き回るフローリストの男の子から、どこかで嗅いだことのある香りがした。
一瞬、意識が遠くへ行った。花や植物の香りではない。
香水だ。これは、誰の匂いだった?
「あなたが通った場所はいい香りがしますね。」と思わず声をかけた。
ありがとうございます、お気に入りなんです、と香水の名前を教えてくれた。

「都合のいい関係」だった、わたしの名前すら覚えていなかったあの人

そうだ、あの人と同じだ。
わたしの名前すら覚えていなかった人。

25歳の春から夏にかけて、気の向くままに色んな人と寝た。そういう時期だった。
マッチングアプリは便利だ。うまくいけば、仕事が終わった夜遅くでもその日に会える人が見つかる。当時は見境なく適当にやりとりをしていたので、プロフィール写真と違う人が来たり、嫌なことを言われ、怒って帰った夜も何度かあった。
そういうことが続いて、一旦頭を冷やすか、と思っていた頃に出会った人だった。

不定休シフト制、サービス業。私と一緒だ。車持ち。年はたしか一つ上だった。
「今から会える?」どちらかが連絡をして、予定が合えば迎えに来てもらう。文字通りセックスだけして解散する。
3ヶ月ほど続いて、「今日暇?」の連絡が返ってこないまま、既読もつかず数週間が経った。楽な関係だと思っていたけど、終わり方もあっさりだな。お互い都合がいいかと思ってたのに。

どんな顔や声だっただろう。見ないようにしていたのはわたしの方かも

ある日、その人と同じ職場で働いている友だちから連絡が来た。
「こないださ、あの人話しかけてきたよ。メガネの子のお友だちですよね?って」
「名前出したら、んー、たぶん??って、名前覚えてない素振り見せたよ。演技かもしれないけど」
あぁその人切れちゃったんだよね~と返事を返しながら、すっと身体の芯が冷えたのがわかった。
メガネの子、かぁ。名前を呼ばれたことがなかったな。でもわたしも、あの人の名前と職場くらいしか知らなかった。
彼だけじゃない。わたしの名前を一度も呼ばなかった人たち。
どんな顔だった?どんな声をして、どんな目でわたしを見ていた?行為の最中、目も合わなかった。でも、見ないようにしていたのはわたしの方じゃなかったか?

身体だけ重ねる心に優しくない生活を変えるため、惰性の関係に別れを

そんな時、お世話になっているヨガの先生がInstagramに投稿した言葉が目に止まった。
「おいしい食事をすると体が元気になる いとしいセックスをすると心が優しくなる」
あぁ、心、優しくなってないなぁ。セックスはセックスとして、それだけで楽しめると思っていた。気持ちが交わらなくても、身体さえあれば。だから色んな人と寝た。
わたし、ほんとに楽しかったか?わたしの名前も呼ばない人、目も合わせたくない人と身体だけ重ねることが。
夏が終わって、マッチングアプリをアカウントごと消した。惰性で関係を続けていた人たちともきっちりお別れをした。
今でもセックスは好き。でも、前みたいに穴の空いたコップに水を注ぎ続けるような求め方はしなくなった。

あの香水を使う男の子とは、その後も仕事でちょくちょく会うけれど、彼の香水の匂いを嗅いでも、記憶の元の持ち主のことを思い出すことはなくなってきた。
ただ、今でもどこかであの香りを嗅ぐたびに、わたしは、優しい目でわたしを見る、名前を呼び合える人とだけ、わたしの時間を使おうと静かに決意する。