いぬすい【犬吸い】(名)愛犬の背中やおなかに顔を思いきりうずめて、深呼吸すること。疲労回復がのぞめる。(諸説有り)
愛犬家がみんなやっていることなのかは知らないが、わたしはよく犬を吸う。
抱っこのとき、おやすみのとき、昼寝のとき、ごろごろタイム。
もはや節操なく、四六時中犬を吸う。
鼻を思いっきりくっつけて深呼吸すると、匂いではなく、成分だけを吸った気になれる。
ただただ犬を感じて胸が満たされる。
わたしはおかしいのだろうか。
「犬」を思い切り吸って、わたしは泣いたり元気になったりできる
元気いっぱいやんちゃガール。祖父母の家にいるそんな小さなお姫様も、わたしが犬吸いを始めるとおとなしく、背中やおなかを貸してくれる。
優しいのか、あきらめがいいのか。
その小さな小さな背中で、「犬」を思いっきり吸って、わたしは泣き、笑い、元気になるのだ。
そうして生きる源を存分に分けてもらっておきながら、犬吸いで成分だけを吸うことで、わたしは匂いを嗅ぐことを避けている。
彼女の匂いを嗅ぎたくないわけではない。
ただ少し怖い。
忘れられないあの匂いがしたら、もっと泣いてしまいそうだから。
今は小さなお姫様が君臨している祖父母の家には、かつて小さなナイトがいた。
彼は私のナイトだった……らしい。
生まれたばかりのわたしに母親以外のひとが近づこうものなら、わんわんと責め立て守っていたそうだ。
彼にとってはわたしが姫だった。
まさか数年後、自我が芽生えた姫に裏切られるとは、思いもよらなかっただろう。
怖いだなんだとわんわん泣かれ、落ち着くまで別室に閉め出されることになるとは。
あのときはごめんね。
まだ、届くだろうか。
年々記憶は薄くなっていくけど、アランの耳の匂いだけは色あせない
わたしのナイトの名前はアランという。
かの有名な(といってもわたしは顔も存じ上げないけれど)アラン・ドロンからいただいたらしいが、名前負けなんて全然していなかった。
人間のほうはわからないが、なんせこちらのアランはナイトなのだから。
恩を仇で返したわたしを責め立てることもなく、それからも変わらず面倒を見、遊んでくれた立派なナイトなのだから。
もう何年も前、アランは天国に行ってしまった。
認知症になって、自分の尻尾をくるくると追いかけ、目が見えなくなって頻繁に角に頭をぶつけ、大好きなティッシュばかりくわえ、食べ、叱られていた。
散歩帰りに家の玄関を通りすぎてしまうようになった。
わたしのこともかつて守った姫だとはわかっていなかったかもしれない。
わたしは、アランの顔も声も、もう鮮明に思い出すことができない。
エピソードは記憶にずっとあるし、映像としても残っているが、それでも年々薄くなっていくことは否めない。
それでも1つ、絶対に色あせないものがあった。
匂いだ。
なぜ、色あせないのか。
私はアランといた頃は、犬吸いではなく、普通に、アランの匂いを嗅いでいた。
特に、耳の匂いを嗅ぐのが大好きだった。
……未だに家族の誰にも共感されないけれど。
アランの耳の匂いは、毎年食べるあるものにそっくりだったのだ。
なまこを口に含んだとき、アランの耳の匂いが鼻腔を突き抜けた
なんでしょう?
正解は、「なまこ」。
真面目も真面目。大真面目である。
初めて食べたとき目をむいた。
口と鼻とが同時に驚いたから。
アランの耳の味で。
アランの耳の匂いで。
顔中が大戦争だった。
「これ、アランの味がする」
またまた家族の誰にも共感されなかった。
彼の耳を舐めたりしたことはさすがにないが、なまこを口に含んだときに鼻腔を突き抜ける風はまさしく、アランの耳の匂いを嗅いだときのものだった。
くしくもそれは、わたしが「口と鼻は本当につながっているのだ」と実感したときでもあった。
わが家では、毎年おせち料理になまこが入っている。
そんなわけでわたしは毎年アランを、アランの耳の匂いを思い出す。
自分のナイトをそんなふうに、海の生き物を味わうことでしか思い出せないなんて、不誠実なのではないか。
わたしは薄情なのではないか。
そんな思いもあって、わたしは今、そばにいるお姫様の匂いを嗅ぐことができない。
犬なら誰でもいいのか、とアランに責められるのを恐れているのかもしれないし、
同じなまこの匂いがしたら、アランの代わりにしてしまいそうな自分が情けないのかもしれない。
本当は、きっと、ただもうあの匂いを嗅げないことを突きつけられるのが怖いのだ。
代わりにわたしは、犬を吸う。
今日も、匂いを嗅げずに犬を吸う。
まるで何かの罪滅ぼしみたいに。
それくらいならいいよね?アラン。
怒らないよね?だってわたしのナイトだもの。
きっとそっちで神様のティッシュをいっぱい食べてるんでしょ?
神様になら叱られないでしょ?
わたしも毎年なまこをたらふく食べてるよ。
忘れないよ。