「ふつう」ってなんだろう。
私は精神障害者だ。
障害者雇用で就活を進めてきた。
しかし、思うのだ。
就活を進めれば進めるほど企業は「ふつう」の子を取りたがってると。
そんなこと一言も言わないけれど、そんな空気を感じるし、内定が早かった子は内臓系の疾患でほとんど配慮する必要がなく元気で明るい子だった。
「ふつう」ってなんだろう。
今企業ではダイバーシティ推進部など新たな部署ができ、女性や障害者が働きやすくするために動き出してるらしい。
それ、本当の意味で動いてるのか。
結局は「誰もが活躍できる社会」じゃなくて「許された弱者は活躍の場をやってもいい」と私は察してしまう。
そんな捻くれ者になってしまうまで、当時の私は企業に疲れていた。
「ふつう」は誰が決め、そして「ふつう」にどれだけの意味があるのか
私の内定取得は遅れに遅れた。
それもそうだろう、精神疾患の中でも少し特殊な行動やこだわりを持ってる私は障害の字面だけではねてしまう企業もあるくらいだ。
障害者雇用というのは優しい制度ではない。如何に健常者に近しい人間を取り合うかの企業同士の勝負なのだ。
健常者の方も思うことがあるのではないだろうか、「ふつう」髪は黒く染めるよね。「ふつう」パンプスを履いていくよね。「ふつう」スーツで行くよね。
その「ふつう」は誰が決めたんだろう。そしてその「ふつう」にどれだけの意味があるだろう。
たとえば成績優秀、面接も問題なし、グループディスカッションでは重宝され、ディベートでは痛いところを付く。そんな人の髪型がレインボー色だったらもうそれだけで落とされてしまうのだろうか。どんな外見をしていても中身は変わりゃしないのに。
私は少し滑稽に思う。しかしこれが世界の「ふつう」なのだ。
如何に「ふつう」に近いか精査していくのが障害者雇用の面接だと思う
障害者雇用は上記の例の逆を行くものだと思う。「ふつうじゃない」人達。そのなかで如何に「ふつう」に近いか精査していくのが障害者雇用の面接だと思う。
馬鹿馬鹿しいと思う。
その人には「ふつう」ではないところもあるかもしれないけれど、これだけ素晴らしいPCスキルがあるだとか、逆にパソコンはからきしだけど接客スキルはずば抜けてるだとか、そういうのを見抜くのが面接であると私は思う。
現に健常者の面接はそれに近いだろう。
なのに障害者の面接になると、とたんにおかしなことになってしまう。
企業が怖がりになってしまう。
日本の雇用の法律を満たすために仕方なくとっている、と指摘されても言い返せないのではないのか?そう憤るほど企業は「ふつう」の人を求める。
「ふつう」は幻想で、この世にいないのに、みんな苦しめられてる
「ふつう」ってなんだろう。
私は幻想だと思っている。
「ふつう」などこの世にはない。
みんな違っていて、みんな「ふつう」に苦しめられてる。その苦しみが大きいのが障害者なだけな気がしている。
しかし、私たちは「ふつう」になるために産まれたのだろうか。違う。産まれて自分らしさを勝ち取りありのままに生きていく。そんな日々を待ち望んではなかっただろうか。
私は今転職の準備をしている。
大きな企業ではあるが、私の特性を見つつも私のスキルを買ってくれる企業が見つかったのだ。
人はひとりひとり違う。
そんな当たり前のことを、企業は障害者というレッテルだけで臆病になり、平均的なひとを血眼で探す。
そんなことやってるうちは多様性の時代なんて一向に来ないだろう。
今の障害者雇用に対して思うことはただ1つ、「いつまでそんなことしてるつもり?」である。