知人と暮らしていたとき、私は知人と喧嘩をしたことがなかった。私が拗ねたり、不機嫌になって知人に当たり散らしたりすと、彼はいつだって怒らずに、「いおさんは頭のいい子だから、本当はこんなことしちゃ駄目だってわかってるよね」と諭してくれた。

呆れたり怒鳴ったりしない知人は私にとって、とても理性的で正しく素晴らしい人間に見えた。だから、私は知人と喧嘩ができなかった。

知人が望むような「頭がいい子」でいるために、私は言葉を飲み込んだ

私は「頭がいい子」だから、知人が褒めてくれることが嬉しかったから、大好きな知人を困らせてはいけないと思ったのだ。いつだって物分りのいい子でいないといけないと思い込み、私は知人に心からの思いをぶつけることができなかった。
知人が望むような「頭がいい子」でいつづけるために、私はたくさんの言葉を飲み込んだ。不満や不平をぶつけてスッキリするよりも、知人から「頭がいい子」だと思われていたかった。知人に馬鹿だと思われるくらいなら、嫌なことだって何だって我慢した方がマシだった。

だから、私は知人と一緒にいるのがつらくなっていったのだと思う。知人のことが大好きなのに、一緒にいることがどうしようもなくつらかった。
最後の方は、知人が仕事や買い出しで出かけている時の方が、気が楽だった。居候のくせに、帰ってこなければいいとすら思っていた。

悪いことばかり考え、きちんと向き合えなかったのは、弱い私の責任

ちゃんと、知人と喧嘩がしたかった。意見を言い合い擦り合わせ、お互いがちょうどいいと思う着地点を見つけたかった。
今思えば多分、知人は私が何か意見を言ったとしても、私が恐れていたように、私を馬鹿だとは思わなかっただろう。きちんと話し合いをしてくれたと思う。

悪い方へとばかり考えて、知人ときちんと向き合えなかったのは、弱い私の責任だ。いつも知人の機嫌を伺って、少しでも彼の理想の「いおさん」でいようと虚勢を張って、作り上げた「いい子」の人格で過ごして苦しくなるなんて、ただの自業自得である。
ちゃんと筋道を立てて、論理的に話せばよいだけだった。それができずに当たり散らすなんて、結局私は馬鹿者である。

知人に言わなかったことがたくさんあるくせに、言わずに後悔したことよりも、言って後悔したことの方が多かったような気がする。本当に言いたいことではなくて、言わなくていいことばかり言って、知人のことを傷付けたし困らせた。

大好きな人のことを大切にできるように、後悔しない言葉選びがしたい

だからもう、私は後悔しない言葉選びがしたいと思う。大好きな人のことは、大切にできるうちに、大切にしたいと思う。
言葉はときに、ナイフより鋭利な凶器になる。それが身にしみてわかったから、口に出す言葉には気を付けて、人を傷付けたり困らせたりしないようにしようと思う。

せっかく日本語という、うつくしく繊細な言語を母国語として生まれ生きてきたのだから、私は人を嫌な気持ちにするためにではなく、お互い良い気持ちになるために言葉を使いたい。自分の気持ちも人の気持ちも、できるだけ傷つけ合わないように伝え合いたい。
 だから話すときには、一呼吸置いて、本当に言ってよいことか考える。伝え方一つで、感じ方も人間関係も大きく変わる。その変わり方が、自分にとっても相手にとっても良いものであってほしいから、私は言葉を一つ一つ大切にして、今日も生きる。