人から嫌われたくなくて、その人に合わせて「自分のキャラ」を変えて生きている
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先生の前にいる時、面接を受けている時、大学の友達といる時、高校の友達といる時、家族といる時。様々な場面を切り取った“わたし”の形は、スライムのように一定のものに固定されていない、そんな感じだ。
私は、接する人によって“キャラ”という物を変化させている。というよりも、人に対して気を遣いすぎているのかもしれない。人に対する気遣いには、優しさや共感のようにふんわりした居心地のいいものもあるけれど、もう一つ“嫌われないため”の気遣いもあると感じている。私が無意識に遣っている気遣いは、後者だ。
私には苦手なことがあり、それは“人の名前を呼ぶこと”である。仲良しな友達の名前、同じ学科の子の名前、自分に近しい人であればあるほど、どんな名前で呼べばいいのか分からなくなる。その人の呼び名が複数あると、更にその人のことを呼びづらくなってしまう。
名前というのは、その人にとって1番大切なもので「あ、他の人は○○って呼んでいる、その呼び名で呼んだ方がいいのか?」「私が呼び捨てで呼んだら嫌な気持ちになるんじゃないか?」と余計な気遣いが、頭の中を目まぐるしく回る。回って回って、名前を口に出せなくなる。
いざ呼ばないといけない時「○○(相手の名前)」という言葉が喉まできているのにも関わらず、つい「あのさ」という3文字で済ませてしまうのだ。人の名前を呼ばない人間だと思われているのだろう。けれど、嫌われるよりはマシだと思っている自分もいる(諦めているのだ)。
しかし、名前を呼ばれることは意外にも嬉しいことで、名前を呼ばないことの方が人のことを傷付けてしまっているのではないかと後悔することもある。名前を呼ぶという単純で、簡単な行為。なぜ、自分にはこの行為を“単純だ”と割り切って行うことが出来ないのか。
私は、人から嫌われたくないのだ。私は、人に嫌われることを異様に嫌っている。人から嫌われることがとても怖いことだと思っている。友人に対して、“自分と”仲良くしてくれている人ではなく、“ 自分なんかと”仲良くしてくれている人という捉え方をしていると思う。そんな貴重な存在を、自分の身勝手な行動で傷付けたくない。それだけではなく、自分から離れていってほしくない。
私は人が好きだ、人から信頼されたい、人から必要とされたい。しかし、その感情を表に出すことなんてできない。幼い子が好きな子に対して意地悪してしまう、いわゆる反動形成みたいな感じだ。
私は“人が嫌い”で、“1人でいることが好きだ”というスタンスで、表では思われているのだろう。しかし、そんな“キャラ”は作り物だ。本当の私は人間が好きだ。
“わたし”という"かたち”を固定する為にはどうしたらいいのだろう? 自分の気持ちを表に垂れ流せば良いのか? そんな単純なら、こんなに悩むことなんてないだろう。
人は形がないから面白いのか。自分の形がある方が偉いのか。そもそも"かたち”とはなんなのか。もう少し単純に考えられるかもしれない。人に貰う気持ちに対して同等の気持ちを返せばいいのではないか。
自分がどう見られているか、“かたち”を第一に考えるのではない。まずは気持ちなのではないか。
私は1歩踏み出したい。自分の気持ちに忠実に従いたい。“かたち”なんか壊して、人と関わりたい。それが私の目標だ。
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