私は、「不完全」であることが自慢だ。
一般に、不完全とは欠けている様や十分でないことを表すネガティブな言葉と捉えられる。
しかし、私にとって不完全とは、他者との縁を繋ぐことが出来る自分の長所であると思う。

絶対評価よりも相対評価が重要。自分は低レベルで人より劣った存在

周囲に優秀な友人や姉妹を持った私は、幼少期から他者比較をして自己を卑下してしまうことが多かった。
おそらく、客観的にみると自分が思うほど出来損ないレベルではなかったのかもしれないが、絶対評価よりも相対評価が重要であった私にとって、自分は低レベルで人より劣っている存在であったのだ。
常に「自分は周りより何もできないんだから、人一倍頑張らないと」と考えており、他人からも何故そんなにも自己肯定感が低いのかと不思議がられるほどだった。
ちなみに、これは女性同士の会話特有の「そんなことないよ」待ちの謙遜ではなく、本心から思っている言葉だ。
今思い返すと、非常に生きづらい人生であったなあとしみじみ思う。

「誰かの『できない』を、誰かが補っている」。その言葉に衝撃が走る

しかしある時、知人に言われた一言が私の人生を大きく変えることとなる。
大学3年生の冬、友人の紹介をきっかけに長期インターンシップを始めた私は、同じくインターンシップ生として働く同期と2人で会話をしていた。
自分の話になった時にいつもの様に、自分が未熟で何も出来ていないことへの劣等感を感じていることを話すと、その後少し黙っていた彼女は、私に言葉を投げかけた。

「自分が出来ないというけれども、人は皆それぞれどこかで欠けている所を持っている。完璧に見える人も実はそうではなくて、誰かの『できない』を、誰かが補っている。人は、そうして支えあって成長していくのだと思うよ」

その言葉を聞いたとき、頭を重い何かでガツンと殴られたような衝撃が走った。己にしか意識がいっていなかった自分が、酷くちっぽけに見えたのだ。
全て自分が出来ないといけないと思いすぎていたが、そうではなかったのかもしれないと、その瞬間初めて気づくことが出来たと思う。
もし全部完璧でなければいけないのだったら、そのゴールは何だったのかすら考えておらず、ただ幻想を追っていたのだ。
もしかすると私は、自分に自信がないと言いながらも、自分一人の力で出来るようになれるとどこか自分を過信していたのかも知れない。

「不完全」と思っていた自分が頑張れるのは、周囲が補ってくれるから

振り返ると、私は今まで本当に沢山の仲間や友人、周囲の方々に支えられてきた。沢山行動をしていた分、出会う人の数も迷惑をかける数も人一倍多かった。
しかし、「不完全」だと思っていた自分が、こうして今色んなことに頑張れているのは周囲と協力し、欠けている部分を補いあい一つになってきたからだろう。

そのことに気づかせてくれたこの知人と出会えたことも、不完全であるからこそ完全を追い求める過程の中で出会った一つの縁のめぐり合わせだと思った。

私は今、『不完全な自分』に自信を持つことが出来ている。
完全でなく、欠けている自分を認知出来ているからこそ、新しい出会いや学びが沢山あるのだと思う。これからも、巡り合う出会いの中で、他者と補いあいながら成長していけると思うと、本当に未来が楽しみだと心から思える。

いつか、友人が自分に気づかせてくれたように、私も他の誰かを満たし、気づきを与えることが出来る存在になりたいと思う。