母方の祖父と私は仲が良かった。
幼い頃、私は神戸に住んでいて、祖父母は東京の方南町に住んでいた。
1年に1度か2度、私は祖父母の家に遊びに行った。
私は祖父を「じぃ」と呼んでいて、じぃは私が祖父母の家に行くと決まって、声高らかに「万歳!万歳!」と両手をあげて再会を喜んだ。同じようにそれの真似をして、2人で沢山の万歳をした。
「あゆみという名前なのに、ちっとも歩かない」と両親に叱られる私のことを、1番おぶって歩いたのはじぃだ。
「ウィンナーは、生でも食べられるんだ、美味いぞ」と生でウィンナーを食べるじぃの姿を今でも忘れられない。
じぃは歯が強く、殆どのものは大抵歯で開けられる。
そんな破天荒な姿を見せてくれるじぃのことが大好きだった。
悪くなったじぃとの関係。正しくは、私が一方的にダメにした
程無くして、祖父母は故郷の青森に住居を移した。
6つ歳の離れた弟の、里帰り出産に伴った、父を除いた家族での1年間の同居を境に、じぃとの関係は悪くなった。
正しくは、私が一方的にダメにした。
老化が進んで、じぃは沢山のガラクタを集めるようになって祖母との関係が悪化した。
ガラクタを集めているだけで、じぃはずっとじぃのままだったのに、厳しい祖母の顔色を伺って、私はじぃに素っ気ない態度を取るようになった。
祖母は、酒に酔ってダイニングの椅子に綺麗な背筋のまま頭だけを落として眠ることが多くなったじぃを鬱陶しがるようになり、私もそれに同調をした。
特に、思うことはなかったのに。
そんな1年を経て、神戸に1人でいた父の東京転勤が決まり、祖父母の家を後にしたことで和解ができないまま同居だけが解消された。
それから、幾度となく長期休みに祖父母の家へ行き、じぃと顔を合わせたけれど、2人で万歳をすることはなかった。
私が素っ気ない態度を取っても、じぃはただ、私の姿を目で追ってはニコニコと微笑むだけだった。
だから、いつかまた仲の良い頃に戻れると甘えていた。
お酒が好きなじぃと、大人になったら一緒にお酒が飲みたいと思っていた。
下唇を噛み黙って泣く母を見て、何もかも間に合わなかったことを悟る
そんな漠然とした理想を掲げて、なんにも行動しなかった私に、バチが当たった。
13歳の誕生日を迎えた3日後の授業中に、担任が来て、私を教室の外へ呼び出した。
「お爺ちゃんが危篤らしいから、急いで帰りなさい」
心拍数と同じようにこんがらがる足を引きずって、走って帰宅して、家族で青森へ向かった。
東北新幹線が仙台を過ぎた辺りで、母に一本の電話が入り、携帯を耳に当てながら下唇を噛んで黙って泣く母を見て、何もかも間に合わなかったことを悟った。
本当はずっと変わらず大好きだったよと、いつか、ちゃんと伝えて仲良しの頃に戻りたかったのに、いつかいつかと思っていたらそのいつかは一生来ないものになってしまった。
新鮮な孫の思い出を、悲しい思い出のままで終わらせてしまった。
「人は失ってからしか大切なことに気付けない」なんて言葉、ただの甘えだ。
でも、その通りだった。
これから先もずっと抱えて歩く途方もなく大きな後悔で、私は人に流されないことの大切さがやっと分かった。
じぃは怒ってないと笑うだろうけど、私の気持ちに折り合いはつかない
街でたまに、ポマードの匂いを嗅ぐ度に、じぃの背中でうたた寝をしていた頃の思い出が蘇り、ため息が出る。
優しいじぃのことだから、怒ってないよと笑うだろう。本当は分かっている。
それでも私の中で、気持ちの折り合いがつくことはない。
心に刺さる抜けない釘に胸を痛めて、同じ過ちを繰り返さないよう日々を生きることしか、私にはできない。
じぃ、私は大人になってお酒が飲めるようになったよ。あんなに歩くのが嫌いだったのに、今は散歩が趣味なの。
ウィンナーは生でも食べられるけど、やっぱり焼いたほうが美味しいよ。
じぃ、ごめんね。今になってやっとこんな話ができるようになって。
本当にずっとずっと大好きな、私の自慢のお爺ちゃんだったのに。