この出来事は喧嘩ではない。私はそう思っている。
しかし周りから見ると、これは喧嘩に見えてしまう出来事だった。しかも私の一方的な。
この出来事に「後悔」はしていない。しているとしたらそのとき、「ごめんね」の一言が、ただその一言が、当時の私はどうしても言うことができなかったことだ。
「どいて」。なぜかその日は普段通りに対処できず、冷たい声で言った
高校から「女子」だけ、という環境になった。初めは順調に友だちもできて、楽しかったことを覚えている。その状態がうまくいっていたのは、11月までのことだった。
それまでに何かがあったわけではないのに急に、「学校に行くのがつらい」と思い始めた。小学校でも中学校でも、そんなことを思ったことはなかった。感覚として覚えているのは、本当に私の脳裏でそんな言葉が浮かんできたこと。
それからすぐに、私にとって高校でのターニングポイントと言える出来事が起きた。私の中ではその出来事のことを、「音楽室事件」と呼んでいる。
ある日、音楽の授業中にその事件は起きた。私が少し席を外したときに、クラスの子が私の席に座ったのだ。しかしこれは、普通のこと。私だって、話したい子の近くの席が空いていれば座る。いつもなら、普段通りに対処できたのかもしれない。それが、そのときにできなかったのだ。
「どいて」と冷たい声で、目もきっと笑っていなかっただろう。その子に対して、言ってしまったのだ。
言ってすぐに思ったのは、「後悔」ではなく「解放」だった。そのときの私は、その子に向き合うほどの精神力の強さも、謝りたいと思う気持ちもなかった。いや、そう思うことができない状態だったのだろう。
頭の中は真っ白で、それがそのときの「後悔」ではないことだけはわかっていた。「どいて」の一言が、今まで溜めてきたものへの「解放」になったのだ。
「音楽室事件」は、普段では言わないことを「本音」を言ってしまった
その日から学校に行く頻度が落ちた。
父は「行け」と言う。母は「気分転換も大事」と言う。1週間ぐらいそれが続いたところで、クラスとは違う教室へと足を向けるようになった。私の高校に、そのような制度があってよかったと思った。
クラスにはやはり行きにくかった。理由はいくつかあるが、その中でも「音楽室事件」のことは大きい。
普段の私では言わないことを、「本音」を言ってしまった。素の私を、高校から隠していたところはある。それがすべての原因なのか、それだけではないのか、今でもわからない。ただそれ以降に決断をしたことは、そのときの自分にとって間違いなく救いだった。
「逃げを選択するということは、それは後から帰ってくる」と、部活の顧問の先生は私に言った。それでも当時の私は、「逃げたい」と思った。
1年生が終わりクラスに戻った私は、2年・3年と進級したとき、それは確かに来たが、何事もなかったかのように時は流れていった。私にとっては重大なことでも、みんなにとっては大したことないのだと思ったら、その後はすごく楽に生活できた。
その子とは何もなかったような関係が続いた。普段通りに戻った私は、その子に「ごめんね」と言いたい気持ちがどことなくあった。
結果は言うことが出来なかったが、その子の中では「終わったこと」と思っているのかもしれない。追求しないその子の優しさに、そのときの私は救われた。