「もう長くないから」と言う祖父は、もう少し長生きすると思っていた
祖父の葬式には、真っ黒のタイトワンピースの喪服に、生え際が7~8センチほど黒くなった茶髪で出席した。明るい茶髪に、黒い部分がよく目立つ。
何も好きでこんな髪色で参列したわけじゃない。
祖父がこんなに早くに亡くなるとは思わなかった。祖父本人は随分前から「もう長くないから」と終活に取り掛かっていたが、私たちはもう少し長生きしてくれるんじゃないかと思っていた。
祖父が亡くなったという知らせを受けた時は昼間で、家には私しかいなかった。私は歩いて数分で着く祖父の家に行き、音楽を流しながら掃除機をかけた。
早く片付けなければ、じいちゃんも皆も帰ってきてしまう。感傷に浸っている時間はない。
おじいちゃんっ子の弟は涙ひとつ見せなかった。皆が祖父を悼む中、むしろこれまでより堂々としていた。
実母に続いて実父を亡くした母は、母にとっておばにあたる人たちに叱咤激励され、泣き言を並べながらも、喪主の仕事を全うした。
母が祖父の世話にできるだけ時間を割けるようにと、私と父は協力して家事をこなしてきた。しかしそれよりも、母の姉妹喧嘩や、早朝出勤で仕事を片付けて、忙しく病院に向かう母を見送ることの方がよほどこたえた。
大きな支えを失った母のためにも、私たち姉弟がしっかりしなければ…
大学では授業にサークル活動。レポートも多い時期で付き合いは悪くなっていたと思う。そうこうするうちにも髪は伸び続け、立派なプリンになってしまった。
お通夜には、私の昔からの友人も来てくれたが、友人たちの方が沈んでいるように見えるほど、私は元気だった。
元気というか、私たち姉弟がしっかりしなければ、大きな支えを失った母がやっていけなくなる。だから祖父の死を悼むのは今じゃない。
伯母も母も思いの外、明るく振舞っていた。私たち家族も、お通夜の割には明るかったと思う。
しかし周りを見渡すと、一部には祖父の威厳を笠に着る人もいて、いやになった。伯母や母を差し置いて何様のつもり?いつまで祖父頼みなの?と呆れてしまった。そしてこんな人が何名かいて、この空気も当たり前になっていることが悔しかった。
何十年も前の赴任先でお世話になったという人が来てくれた。新幹線で何時間もかけてきたであろうその人は、堪えかねたように「惜しい人を亡くした」と本当に悔しそうに、私に言いに来た。きっと同じような思いをしている人に声をかけたかったのだろう。
私はこの人の言葉に安堵し、ちょっと笑顔になってしまったと思う。深々と頭を下げ、その人を見送った。
一番祖父に可愛がられていた弟のおかげで、私は母のサポートができた
祖父は自分が長くないと悟ってから、私たちにぽろぽろと言葉を残していた。
私により、弟に対しての方がそれは強かったようだ。祖父と弟はこそこそ二人で話すことが多くなった。孫にできることは、全部弟に任せればいいと思った。
ここは私の出る幕じゃない。孫の中で一番じいちゃんに可愛がられていたのは、どう考えても弟だった。弟が祖父の死後の不安を軽くしていたのは間違いない。私も弟のおかげで、安心して母のサポートができた。
母の姉妹喧嘩がいやになって、家事をやる気をなくした時もあったが「自分の分担くらいちゃんとしろ」と弟に怒られ、今度は母を家から追い出すように家事をした。いつの間にか、姉妹関係も落ち着いていた。
結局、本当に家事ができない弟に、任せた家事はなかったと思う。男女差別の考えは全くなかったのに、我が家の男性は家事が全然できない。それでも父はきちんと浴槽掃除ができるようになり、洗濯物の片付けや、洗い物も父が手伝ってくれるようになった。
皆じいちゃんが大好きだから、母を少しでもじいちゃんの元で過ごさせようと、できることをした。まぁもう少し弟には家事を教えておくんだったと今は思うけれど、この言葉に嫌味がなかったのは、弟が家事という仕事に対しても尊敬の念を持っていたからだろう。
家事を放棄しかけたことで、罪悪感があった。
もう大丈夫。祖父の援護がない嫌味にも、私たちは立ち向かえる
私は祖父の棺を閉める時、急に悲しくなって、皆の輪に入っていいのかもわからなくなって、立ち尽くしてしまった。大伯母が「あんたは行きなさい」と背中を押してくれて、最後に祖父の顔を見ることができた。本当に死んじゃったんだなぁと、ここで実感した。
一通りのことが終わり、リビングに親戚が集まった。穏やかな空気だったが、母が主だって祖父の世話をしていたことのお礼を述べられ、「それは娘のおかげ」と言ったら、微妙な空気になってしまった。
一部に私を揶揄する親戚がいた。数字でしか人を判断できない人たちだから、私のような肩書きのない、愛想を振りまいて生きているタイプが嫌いらしい。単純さに呆れるばかりだ。
とはいえ、空気がやばい。なんとかしなければと「皆と違って暇だから、時間あったんだよね~」とごまかすと、「おじいちゃん、喜んでるよ」と言ってくれる人がいる中、「他のことができないんだから、こんな時くらい役に立たないとね!」と言われた。
なんという嫌味。しかしこんな嫌味はもう慣れっこだ。
「助かったのは私だけではないはず」と母が伯母に話をふると、伯母も賛成してくれた。本人もその子供たちも多忙なため、伯母は母ほど病院へ通うことができず、母と衝突もしたが、母が祖父の世話のほとんどをし、伯母は祖父と会うために病院へ向かうという形にしたことで、解決したようだ。
祖父の援護はもうないけれど、私たちは大丈夫だ。
今も私たちの中に生き続けている祖父母に恥じないように生きていく
祖父が亡くなって、何回目かの命日も過ぎた。弟はどうしているんだか知らないけれど、両親は以前より落ち着いた。祖父母の命日にはちょっとだけ夕飯が豪華になったりする。
祖父母にゆかりのあるものは、今でも大切にとっておいてある。いまだに、それまでわからなかった祖父母の言葉の意味が、急にわかるようになることがある。祖父母は今も私たちの中に生き続けている。
これからも見守ってもらえるよう、そして祖父母に恥じないよう生きて行きたい。