家族旅行とお酒が大好きで、仕事熱心、そして意外と涙もろいお父さん。

ねえお父さん、私はまだあなたを許せていません。少しの尊敬と、軽蔑。そして嫌悪感。あの日から変わっていった家族の形を、どうやって割り切ればいいですか。

祖母の死後、伯母さんが我が家を乗っ取っり、家と家族を奪われた

私が高校3年生の冬。あの忌々しい事件は起こりました。同居していた父方の祖母が亡くなった日。伯母さんはけたたましく私の母を「人殺し」と罵り、生まれ育った我が家を占拠したのでした。

父の姉、いわゆる伯母さんは私が物心ついた頃からシングルマザーで、年に何回か顔を合わせる程度だったので、私は話した記憶すらありません。ただ、あまり経済的に裕福ではないことは確かで、いとこが祖父母にお金をねだっている所を見たことはありました。

だから、今回の件も、シングルマザーである我が身を嘆き、普通の生活を送る私たち家族が疎ましかという理由なのでしょう。元々、何かと言いがかりをつけては私の母に当たっていましたから。

ただ、これは度を超えていました。そもそも母は、毎日のようにガンで入院している祖母の病院へ行き、懸命に看病をしていました。それは病院の看護師さんにもわかるほどでした。ガンという病気が殺人であるならば、日本のほとんどの死因が殺人にによるものということになるでしょう。

伯母さんは、祖母が亡くなったタイミングを利用し、我が家を乗っ取ることを、急に思い付いたのか、それともその機会を窺っていたのか。そんなことどうでもいいのです。真実は家と家族の絆を奪われた。それだけなのです。

私たちは引っ越すことになり、借金が増えて、家計が苦しくなった

伯母さんをはじめ、その息子も娘もとにかく素行が悪く、あまりいい評判もありません。墓前の前でタバコを吸いながらピースするような異常な精神の持ち主です。そして、今回も暴力で私たちをねじ伏せました。

「今からおじいちゃんの家に逃げて!」と母から電話が入り、私はセンター試験の前日に、母方の祖父の家に避難することになったのです。伯母さん家族が、私たちの家に乗り込むことを知った母が「逃げて」という言葉を使ったのには、相当の焦りがあったのでしょう。

この一連の話は、私がセンター試験を終えた2日後の夜に、姉が涙ながらに教えてくれました。両親は私の受験の邪魔だけにはなってほしくないと、センター試験の会場に向かう車では何も話してくれませんでした。

それから何日かして、私たちは伯母さん家族から逃げるように、夜な夜なダンボールに荷物をまとめ家を開け渡し、引っ越しをすることになりました。荷物が全て無くなった家は、本当に広く感じました。

ただ、それだけで終わらないのが伯母さんでした。あろうことか、家の残ったローンも両親に押し付けるという最悪の作戦まで準備していたのです。なんせ、伯母さんからしたら私たち家族は祖母を殺した張本人の家族のようですから。引越し先の新しい家のローンがさらに加わり、一気に私たちの家計は苦しくなりました。母は毎日のように、過呼吸や失神を繰り返し、変な宗教にも手を出し始めました。

私たち家族が一度壊れてしまった原因は伯母さん。だから父に聞きたい

こんな生活ですから、私は私立大学の受験を諦め、死ぬ気で勉強して受かった国立大学の奨学金を最大で借りることになりました。安い国立大学の学費を倍近く上回る多額の借金を、私は18歳で負うことになったのです。

多額の借金だなんて大袈裟すぎるかもしれません。でも、それでも私にとっては、起こるはずのないことが起き、わけもわからず本来借りるはずのないお金を借りたわけですから。そして、途方のない金額を返し続けるわけですから。

だから私は父に伝えたい。

ねえ、お父さん。どうしてあの時、実の姉なのに止められなかったの。とうしてお母さんを守ってくれなかったの。どうして私たちがこんな目にあうの。どうして…?

聞きたいことは沢山ありました。でも、一つも聞けませんでした。あの時私たち家族は、一度壊れたのです。

あれから10年。子どもだった私たちも大人になり、この事件の話はある意味、我が家のタブーとして誰も話さなくなりました。むしろ最近になっては、親孝行として毎年家族旅行を娘がたちでプレゼントするなど、家族での恒例行事も増えつつあります。姉は子どもを産み、また新たな家族の形を再生している最中なのです。

でも、あと15年。私はまだあの事件で失った多くのものを簡単に忘れることができません。あんなことがなければと、未だに過去にしがみついてしまうのです。あと15年、奨学金の返済が終わるまでは。