忘れられない祖父の匂いが何なのか、幼い私は知らなかった。
祖父は物静かな人だった。背が高く、細身の祖父はいつも優しい眼をしていた。私は祖父の眼が大好きだった。
祖父の家の壁には、祖父と私の写真が飾られていた。優しく支えるように抱きしめて、笑っている祖父と、照れたようにはにかむ私。私の眼は祖父譲りだった。よく似た2人の眼は、目尻の皺だけが違った。

母の再婚をきっかけに「大好きな祖父母」と会えなくなった

祖父からはいつもいい香りがしていた。幼い私はいつも広い背中に抱きついた。そうすれば、必ず祖父は私の方を振り向き、シワシワな手で支えてくれた。物静かな祖父と関わるこの時間が私は大好きだった。
しかし、母の再婚をきっかけに、私は祖父母と会えなくなった。新しい父は厳格で、思春期真っ只中の私は再婚した母を恨めしく思ったことがある。
なぜ、大好きな祖父母と引き離され、こんなに苦しい思いをしなければいけないのか。なぜ、私だけ。まるで、自分が世界一不幸な人間かのような気持ちだった。

数年後、妹が生まれた。半分しか血の繋がりがない妹は、どこか他人のように感じた。
赤ちゃんは好きだった。姉として妹を愛するよりは、1人の赤ちゃんとして可愛がっていたのだと思う。申し訳なく思う反面、無邪気に笑う可愛い妹が羨ましく、恨めしかった。

ああ、早くこの家を出たい。ただ自由を得るために、ひたすらに毎日を生きた。早く、早く大人になりたかった。

私は父の香りも母の香りも知らない。幼い私の寂しさを埋めてくれた祖父

中学・高校を卒業し、ようやく家を出た。荷物を持ってバスで大学へ向かうとき、羽根が生えたように心が軽くなった。やっと、檻のような世界から抜け出せたのだ。
自由になり、大学で多くの出会いを経験した私は、少しずつ家族を見る余裕が生まれた。
厳格な父は、男社会の嫉妬の中で懸命に生きていたことを知った。父も、苦しかったのだ。

父の香りを私は知らない。幼い妹のように手を繋いだり、抱きついたりしたことがないから。
母の香りも知らない。シングルマザーとして私を育てるために、懸命に勉強する母に甘える時間などなかったのだ。ただ、年に数回会う祖父と愛犬だけが、幼い私の寂しさを埋めてくれた。

大学生になり、家族と向き合う余裕が生まれた頃、整理をしていた母の箪笥から懐かしい匂いがした。ソファに腰掛けて、いつも何かを書いていた祖父の姿がふと、頭に浮かんだ。あ、じいちゃんの匂い……すぐに分かった。
母に心の内を悟られないよう、「何かいい匂いするんだけど、なに?」と何気なく言った。母が私に見せたのは、あまり使われていないハンドクリームだった。そのクリームからは、やはり祖父と同じ香りがした。
心穏やかにしてくれるその香りを、いつも側に持っていたくなった。「匂いが気に入った」と言う私に、母はそのクリームをくれた。

その香りの名前は『カモミール』。祖父と同じ香りのするそれは、私を切なくも穏やかにさせてくれた。

「カモミール」は大好きな祖父の匂い。優しくも辛い記憶を思い出させる

私の記憶にある祖父の姿は、13年前のもので止まっている。今は昔よりもしわが増え、ピンと伸びていた背も曲がっているのかもしれない。幼かったあの頃とは違い、祖父に会いに行く手段は十分にある。
しかし、会いたいという思いと、家族の会わないで欲しいという思いに挟まれ、葛藤した。そして私は結局、会わない選択肢を選んだ。
苦渋の決断だった。何度も何度も声を殺して泣いた。いっそのこと、涙と一緒に辛かったことも幸せだったことも、私自身も、全て消えてしまえばいいと思った。それでも無情にも、次の日の朝はやって来たのだ。

祖父と過ごした時間は、片手で数えられるほどの短い年数だ。記憶がない時間を除けば、1年も満たない。
最後に会った日。あの日に戻れるのならば、祖父に手紙を渡して、伝えたい。
「会えない間も、どうか元気に幸せでいてほしい。そしていつか、お互いにこの世界から旅立ったとき、直ぐに会いに行くね。じいちゃんのことが大好きな孫がいたことを忘れないでね」と。

カモミールは優しくも辛い記憶を思い出させる。それでも、私は前を向いて生きていくしかないのだ。
カモミールの花言葉は、「逆境に耐える」。素朴な見た目でも、しっかりと根をはって雨風に耐えるカモミールのように、そして祖父のように温かく優しい人でありたい。