学生時代の私は「5分前行動の鬼」。今思うと、常軌を逸していた

「5分前行動を心がけましょう」
誰もが一度は小学校で言われたことがあるであろうこのコトバを、いわゆる良い子ちゃんだった私はゼッタイだと思っていた。だからそれを愚直なまでに実践してきた。

学生時代の私は「5分前行動の鬼」と化していた。
明日の持ち物は前日のうちに用意しておく、天気予報は来週までチェックしておく、予習復習を済ませておく、なんてことはあたりまえのことだった。

抜き打ちテストだって怖くなかった。なぜなら抜き打ちテストの内容なんて、予習復習の範囲を超えた範囲から出題されないからだ。
「備えあれば憂いなし」とはなんと素晴らしいことばなんだろうと感心していた。その日の間にできることがあるならば、少しでも済ませておきたかった。もしも「1日は24時間」という制限がなければ、習っていないことでさえ予習を済ませておきたかった。
今思うと、常軌を逸していた。

私は限界だった。死ぬまでこんなタスクが続くのかと、ぐったりした

「5分前行動」「1時間前行動」「1日前行動」「1週間前行動」。
私の「未来を見据えた行動」はその後もとどまるところを知らず、日に日にエスカレートしていった。

今日のタスクが終わったら、次のタスクに取りかからなくてはいけない。一度そう考え始めると、心の休まる時間なんてとっている暇はなかった。
来週は、来月は、来年は……?死ぬまでこんな生活が続くのだろうか。こなされるのを待っている無限のタスクに思いを馳せるだけで、ぐったりした。

なんと私は、仕事をする前から疲れてしまったのだ。終わりの見えないToDOリストに圧倒されて、なんてダメな人間なんだろうと、ひどく自分を責めた。
はっきりいって本末転倒だった。けれども認めるのが怖かったのだ。
ここまでくると限界だった。

「5分前行動」の呪縛に気づいた。やめた私は人にも優しくなれるはず

当然といえば当然だけど、世の中「5分前行動」を厳守する人ばかりじゃない。約束の時間ちょうどに待ち合わせ場所にやってくる人もいれば、毎回遅刻してくる人もいる。思い切って彼女らに、その理由を聞いてみた。
「ちょうどに来たのだから問題はない」「部下や後輩が遅刻しても罪悪感を持たなくていいようにわざと遅刻している」など、意見はさまざまだった。

しかし、「なぜ5分前行動をしないの?」という私の問いは、「なぜ5分前行動をしなければならないの?」という問いとして返ってきたのだ。色々な考え方に触れるうちに、自分が「5分前行動」の呪縛に囚われていることに気付かされた。私は衝撃をうけた。

その時、「5分前行動、やめちゃってもいいんじゃない?」という考えが浮かんだ。
明日の献立が決まってなくたって、明日食べるものがなくなるわけじゃない。急に雨が降ってきたら雨宿りすればいい。予想もしないことが起きたら、笑い話にしちゃえばいい。
だから私は、ありもしない未来のタスクを設定した自分も、それをこなしきれないことで苦しんでいる自分も、しょうがないやつだな、って大目に見てあげることにした。

自分を責めるのは簡単だけど、自分を許すのはずっと難しい。誰に迷惑をかけているわけでもないのに勝手にタスクを設定している自分も、それに苦しめられている自分も、それを無視しようとしてるだらしない自分も、大目に見てやっていいんだと思う。

真面目な人、自分に厳しい人、責任感の強い人はとても素敵だ。だけど、「5分前行動」をやめた私はデキない自分も許してやろうと思う。その方がきっと、人にも優しくなれるはずだから。