「他人に対して怒ることがない」
これは、果たして長所と言えるのだろうか。
私には、他人に怒りを露わにした記憶というものがほとんどない。厳密に言えば「家族以外に対して」怒ったことがないのだ。強いて言うならこの時は怒ってたかな……と挙げられるエピソードも、他の人と比べるとささやかすぎるように思う。
周囲の人から「それは怒っていいよ」と言われるようなシチュエーションの中でも、私の感情はどう頑張っても怒りに繋がらないのだ。幾らか不快に感じることはあれど、怒りを感じるまでには至らない。役職として誰かの上に立たなくてはならない時は指示や注意はすれど、怒ることはない。
怒らないのは聖人君子なんかではなく、自分のルーズさが根底にある
ここまで潔く言い切っていると、読んでくれている人に聖人君子のような人物像を抱かせてしまいそうだが、全くそういう訳ではない。普通に一日過ごせばボロは出まくり、叩けば埃だらけだ。
そんな私を見た人が「優しい」「人付き合いが上手い」と言ってくれることがある。けれど、以前の私はそんな言葉を受け取るたびにどこかモヤモヤしてしまっていた。
まず、私の「優しさ」の根底には自分に対するルーズさがある。自分に対しての許容範囲が広いから、他人に対してもその範囲が広いのだ。そんなところを長所にして良いのかという罪悪感。
加えて、私の友人は怒りの感情を真っ直ぐに表現できる人が多いということもあり、劣等感を感じていたところもあったのだろう。
そうやって考えていくうちに、どんどん自分のことがわからなくなった。
自分では本当に嫌なことは嫌だと言っているつもりだが、実はNOと言えないだけなんじゃないか。無意識に相手の顔色を伺っているんじゃないか。家族には怒れるのに、その他の人に怒れないのは相手を信頼していないからなんじゃないか。
「優しい」を額面通りに受け取れず、つまりは没個性なんじゃないかと考えてしまったこともある。
自分はひどく冷たい人間かもという考え方が、大学生になり変わった
そして何より、自分がひどく冷たい人間のように思えてしまうのだ。本当に優しい人は相手のために怒るし、本当に人付き合いが上手な人とは、感情を乗せて自分の意見をハッキリと相手に伝えることができる人だ。
自分は違う、そう思った。
何か嫌なことがあったとする。他の人はそれが「怒り」という感情に繋がるところで、私は「素早く解決する方法」を頭で考えてしまう。相手に伝えることで解決すると思えば、なるべく感情を乗せずに伝えるし、そうでないなら相手としばらく距離を置くことで解決しようとしてしまう。一歩引いて考えてばかりで、相手に期待しない自分は冷たいのだと思った。
しかし、そんな考え方も大学生になってからいつの間にか変わっていた。自分でもこれというきっかけが分からないのだが、周囲の人のタイプが変わったことが大きいように感じる。
ある程度の年齢になってから知り合ったということもあるのだろうが、大学の友人たちは比較的感情の起伏が穏やかで、他人に怒ることがないという人も多い。
ハッキリしたNOを優しさを含み伝える友人を、没個性とは思わない
そんな友人たちを見ても決して没個性とは思わない。むしろそれは私が友人たちを好きな理由の一つであり、素敵な個性の一つだ。冷たいとも思わない。客観的になって最善策を考えることは相手への思いやりの一つだ。
自分の意見と合わない時にはやんわりと伝えてくれるが、それはきっと私の顔色を伺いながらのものではない。優しさを含んだハッキリとしたNOだ。
自分は狭いところだけを見て、深く考えてしまっていたのだなと感じた。私の「優しさ」は自分を押し殺した上でのものではなかった。きっと、もっと気楽に考えてよかったのだ。さらに言ってしまえば、そんな風に物事を深く考えてしまうところすらも自分の長所だと言ってしまえ。
人との接し方にも色んな形があっていい。ストレートに怒りを表現できるあの子も、一歩引いて考える私も、みんなみんな素敵な個性で「自慢できる私」だ。