24歳の冬。
出せなかった手紙がある。
自分に失望しないように懸命に生きる毎日は、逆に焦りが膨らんでいく
毎日を懸命に生きていた。仕事に夢中になった。
自信がないことに押しつぶされないように、何もない自分に失望しないように、仕事で頭を一杯にして。
それでも不安が残るので勉強をする。
新しいことを学んでいれば、空っぽになる事を心配しなくていい。
今何も持っていなくても、何かの能力がなくても、学び終える頃には満たされているかもしれない、と思える。
そんな毎日を重ねていると、むしろ焦りが膨らんでいく。
人の声、気配、雑音が気になる。
気づいた時にはグリーン車で出勤している。もう普通車には乗れない。
数人しかいない職場でまた、雑音が気になる。
誰もうるさくしていない。誰も誰かの邪魔をしていない。
それなのに、「ざわざわ」と聴こえてくる気がする。
きっと病気だった。
紅白を見ながら「頑張った」と同じようなことを心の中で何度も呟いた
そんな日々にも、救われるチャンスがあった。
年末のささやかな休息時間。
大晦日にいつもより少し豪華な夕食を用意して、1年を振り返りながらテレビを観る。
紅白歌合戦のトップバッターは、私が初めて好きになったアイドルだ。
一瞬も見逃さないようにテレビの前に貼り付く。
幸せだった。
彼らが画面に映らなくなっても、流れている映像を観ながらまた振り返る時間は続く。
「頑張った」
それだけを何度も強く確認している。
「よく頑張った」
「やれる事はやった」
同じようなことを繰り返し心の中で呟く。
涙が流れて、自分が疲れているとわかる。
わかったが、そこまでで止まってしまった。
私はもっと、かけて欲しい言葉があった。
頑張りを認めるのではなく、私自身を認めて欲しいと想っていた。
なぜか核心をつくのが怖かった。
どうしても、「ありのままの私でいい」と言える勇気がなかったから。
何もしていなくても、何かしていても、私は私。そんな私も悪くない
現在25歳の私は、仕事に行けなくなった。
それなりの時間を過ごしながらも、まだ不安の中にいる。
それでも、仕事をしない自分を認めることは、仕事をしていた自分を認めることよりは
ほんの少しだけ楽な気がしている。
何もしていなくても、何かしていても、私は私なのだと、本当は分かってきているのかもしれない。
そんな私も大して悪くないと、どこかで知っているのかもしれない。
「24歳の私へ
いつも頑張っているね。
今までもたくさん頑張ってきたね。
何か得たものや残せた結果はありますか?
あったら良いけど、なくても良いです。
大切なことは、あなたが今そこにいるということです。
家族と離れていても、独りでいても、仕事を頑張っていても、頑張っていなくても
何でもいいです。
あなたが決めて、そこにいるのなら、それ以上必要なことはありません。
だから、別のところに移動したって構いません。
今度はそこにいたらいいです。
いつもありがとう。
これからもよろしくね。
幸せでいようね」