私はいろんなことに挑戦し続けている。
私はそんな自分を誇りに思う。
写生大会、弁論大会、書道展、ピアノのコンクール、イラストコンテストにミスコン、そしてエッセイ……さまざまなことに挑戦してきた。
今までも今も挑戦し続けている。
挑戦し続けているが、がんばっても無駄だと言われ、辛いときもあった
しかし、成功しているから挑戦をし続けている、環境が整っているから挑戦をしている、そういうわけではない。
決してこれまで歩んだ道は平坦ではなかったのだ。
生まれつき、心臓疾患を患っていて、他の人は自由にできたことも、私は制限されていた。
優秀な姉と比べられて、いつも落ちこぼれだと感じていた。
周りから一生懸命挑戦することをバカにされたり、妬まれたり疎まれたりした。
自分にとって近い存在の人からも、頑張っても無駄だ、頑張っても結果は出ないと、心ない言葉を浴びせられた。
挑戦することが、怖くなったり、不安になったり、苦しくなったり、辛くなったりした。
でも、私は挑戦し続けている。
学生の頃、私は勉強と向き合うことを辞めてしまったことがある。
優秀な姉と比べられ、「あなたは頑張っても姉のようにはなれない」「かわいそうだけど、地頭が違う」。泣いている私をさらに追い込む言葉だった。
そして私は勉強と向き合えなくなった。向き合えないまま、何年も過ぎ去ってしまったことがあった。
書道展では結果が出ず、「頑張っているのはわかっているよ」と慰められた。私より後に習い始めた友だちが良い成績を取る姿をじっと見つめていた。悔しかった。
ピアノのコンクールでは緊張して本番で弾き間違えてしまい、演奏後泣きじゃくった。あれほど練習したのに、練習ではできていたのに、肝心の舞台で練習通り弾けない。自分の弱さが辛かった。
ミスコンは挑戦した半分以上は落選だった。私より若い子ばかりが選ばれた。しっかり準備はしても結果に結びつくとは限らなかった。
挑戦することができているのは、辞めてしまったことがあるから
いろんな経験を経て、私は気づいた。
辞めてしまったことがあるから、今、ちゃんと自分と向き合って経験しよう、挑戦しようと思っている。
悔しい、辛いと思ったから、それを超えたいと強く思い挑戦することに結びついている。
たとえ結果に結びつかなかったとしても、挑戦して生まれるものもあると私は信じている。
成功の反対は失敗。これが言葉の決まりだが、私はそうではないと考えている。
成功の反対は経験。失敗したと思うことは経験だと考えている。
失敗することが嫌だからやらない。どうせやってもできないからやらない。間違えることが怖いからやらない。良い結果が出ないだろうからやらない。
やらないと選択することは正直とても楽だ。
ましてや、周りに「どうせやっても無駄だ、やめておいた方がいい」と言われたとしたら、もっと気が楽だ。他人の発した言葉で理由付けをして、自分が責任を負うことなくやめることができるからだ。
でも、それはただ逃げているだけ。
自分と向き合うことをやめただけ。
やってみないとわからない、やらないことは、自分の可能性を狭めていると思う
逃げて楽な道を進むことや、向き合わずに心の平穏を保つことに満足できるなら、それはそれでいいと思う。
ただ、私はそうは思わない。
やらないことや向き合わないことは、自分の可能性にフタをしていると考えている。
やってみないとどうなるかなんてわからない。なぜ、他人ができないと勝手に決めつけたことを鵜呑みにするの?失敗する前からどうせやっても……なんて思うの?進むことに勝手に不安になって立ち止まって、何か生み出されるの?その時間こそ無駄ではないの?
楽な道を進むことは簡単だ。
でも私は楽な道を進みたくはない。
楽な道を選ばず挑戦し、経験を重ねる自分を誇りに思う。
私は、子どもの頃から大人になっても挑戦し続けていることが自慢だ。
諦めてしまったあの時より、今いろんなことに挑戦し続ける自分が好きだから。