最近自分で変わったな、と思うことがある。それは知人に、「今の自分に自信があるか?」と聞かれた時のことだ。私はこう答えた。
「あるよ、もっと磨けば更に良くなると思うけど、今は今でありだね」と。
学生時代の自分が聞いたら、驚きすら通り越し、感動さえするのではないだろうか。そんな仕上がりの返答だ。なぜなら、学生時代の自分はこんな風ではなかったからである。
むしろ逆であった。自分のことなんて嫌いであった。嫌いというか、大嫌いにすら近かったかもしれない。
容姿も能力も才能もない。優れているところが全くない。本気でそう思っていた。人と比べてばかりで、いつも自分よりレベルの高い人を見ては、自分に嫌気がさす、そんなことを日々繰り返していた。悪循環である。
自分に自信がなかった私は、思考を少しずつ変えるために努力を重ねた
そうして数年が過ぎたのち、大学生の時に転機があり、私は自分の思考を少しずつ変えるために努力を重ねることに決めた。色々したが、かいつまんで言えば自分を肯定する練習、そんな感じだ。
自分を肯定する、言葉だけ聞けばそこまで難しい響きではないが、当時の私には難しかった。なぜなら、自分の出来ることよりも出来ないことにずっと目を向けてきたし、それが目についてしまうからだ。出来ることなんてまるでないかのように、出来ないことばかり見てしまうのだ。
出来ないことに目を向けるのは大切なことである。それに気づくことで足りない部分を補い、出来るようにして更に良くなっていくことが出来るからだ。
そしてそれと同じくらい、出来ることに目を向けるのも大切なのだ。というか、もしかしたらこちらの方が優先順位は高いのかもしれない。自分が出来ることを認識することで、それが自信になるのだ。
自分がすでに出来ることであるから、出来るようになるための時間は必要ない。別にそれは何かものすごいこととか、人に言えるようなことでなくてもいい。自分の価値基準の中で出来た、そう認識出来ることであればなんでもいいのだ。それくらいのレベルのことでいい。
他人と比べたらきりがない。勝手に自信を持って「自信」に繋がるなら
そうやって自分を少しずつ肯定していくようになって、それが当たり前に出来るようになった。肯定的に自分を捉える癖がついた。意識しなくても、無意識にそれが出来るようになっていた。良い変化である。
例えば日常でどんな風に私がしているのかといえば、外に出かける時。何かしらのタイミングで、自分の姿が鏡とかに映ったら、私っておしゃれだな、と思うわけである。
もしかしたらこれを読んでいる人はなんて自信家なんだ、この女はと思うかもしれないが、そのくらいでいいのだ。それを鼻にかけたら、嫌味な感じになってしまうが、勝手に自信を持つ分には誰にも影響しない。
正確に言えば、私よりおしゃれな人なんていうのはいくらでもいるわけだが、そういう細かいことは気にしない。他人と比べたらきりがないのだ。いくらでも比較対象が出来てしまうし、際限がない。
外野の他人がなんと言おうと、私の「一番の味方」は自分なのだ
ただ、過去の自分と比べる、それだけだ。ほんの少しでも良くなったり、出来るようになっていたりすればいいのだ。
外野の他人がなんと言おうと、自分の一番の味方は自分なのだ。良くも悪くも、自分の言葉を自分が一番聞いている。浴びている。実際に口にしなくても、何かそういう思考をすることで、それが少しずつ自分に染み込んで思考の土台となっていく。
だから、何か出来たら天才だな、くらいに思っていいし、出来なくてもたまたまタイミングが悪かったのかな、とかそれくらいにで考えるようにしている。
自分でも本当に都合のいい考え方だなあと半ば呆れることもあるけれど、その方が心は以前よりも健康な気がしている。気のせいかもしれないが。
多分、学生時代の私のような思考をしている人は多くいると思うが、そういう人に出会った時にその人の良い所を見つけて肯定し、その人自身がそういう思考を出来るようになるための助けが出来れば、とぼんやり考えることがある。道のりはまだ長そうである。