「ありがとうございました」
たったその一言を伝えたいのに、住所が書かれた何通もの手紙を、私は全て捨ててしまった。

身近に感じた唯一の先生。先生との手紙のやり取りが楽しみのひとつに

中学校に入学した私は、突然始まったランクづけの日々が嫌になっていた。
成績、部活、人間関係……。いま振り返ると、思春期の悩みという一言で片付けるが、当時の物事の受け止め方は、今の何倍にも暗く卑屈なものだった。

そんな時出会ったのが、まだ大学を卒業したばかりの先生だった。若い女性の先生というだけで、先生が紡ぐ言葉や黒板に広がっていく綺麗な文字たちが、一気に身近に感じた。先生の授業が楽しみで、課題もテストも頑張った。

ある日、友人が「先生に提出する課題ノートに一言メッセージを添えたら、返事が返ってきた」と言った。私も、友人の真似をして、漢字のノートの上の空欄に、授業の感想を添えてみた。すると、綺麗な字でそれに対する返事が返ってきた。

嬉しくて、感動して、メッセージを読んで欲しいがために授業も宿題も頑張った。時には小さな写真や、お気に入りのシールを貼ったりしてやりとりした。
しかし、先生とのやりとりが楽しい一方で、相変わらず悩みは絶えない日々だった。部活のもつれた上下関係、恐怖で生徒を支配する一部の先生、両親への反発心……。それなりに楽しいこともあったが、やはり苦しい出来事が多かった。
そして、私は受験生になった。
先生は、非常勤講師の任期が終わって退職し、手紙のやりとりが始まった。

「最後の大会が終わり、部活を引退しました」
「将来の目標ができました」
「もうすぐ受験です」
「仕事の後、教員採用試験に向けて図書館に通う日々です」
「素敵な目標ですね」
「受験頑張ってください」
何通もの手紙のやりとりをした。
唯一、大人の人に本音を伝えることができる場所だった。

中学時代の全てを忘れようと必死だったあの頃、先生との手紙も捨てた

中学を卒業した春、私は地元の高校に入学することが決まった。大学進学を前提としたその高校の合格は、私にとって小さな奇跡のようなものだった。そして、中学卒業と同時に、私は、心に決めていたことがあった。
「中学校であった嫌なことは全て忘れる」

お小遣いで集めていた趣味のグッズを全て捨てた。毛嫌いする同年代がいると知ったから。
高校では中学と同じ部活には入らないと決めた。同性が集まった部活で、謎のルールやいがみ合いにうんざりしたから。

とにかく、高校進学で人間関係が大きく変わる瞬間に、中学時代の全てを忘れようと必死だった。良いことも辛いことも、とにかく一新したかった。
だから私は、先生とやりとりした全ての手紙も、捨てた。
高校に入学して、新たな部活をきっかけに、一生続けたいと思える趣味に出会った。素敵な友人もできた。しかし、忙しくも充実した日々を送る一方で、先生のことを思い出していた。それは、大学に進学しても変わらなかった。

伝えたいことがたくさんある。先生は今、どこで何をしていますか?

数年前、先生が副顧問だった部活に入部していた友達から、先生の連絡先を聞いた。住所ではないから、手紙を出すことはできない。おまけに、当時の電話番号だから、繋がらないかもしれない。勇気もなくて、番号を打つこともできない。

しかし、私はずっと、その番号のメモを捨てることができない。
先生に伝えたかったこと、先生に伝えたいことが、山ほどある。
もし今、先生がこのエッセイを読んでくれていたら……。そんな奇跡のような出来事を願って、手紙を書こうと思う。

先生へ
お元気ですか?
私は地元の高校を卒業した後、少し離れた県にある大学に進学しました。そして今は、東京で働いています。あの頃手紙で打ち明けた職業とは、別の仕事です。
私は、先生に伝えたいことがたくさんあります。
そして、きちんとお礼を伝えなかったことを、後悔しています。
先生は、今、どこで何をしていますか?
どうかお元気で、笑って過ごしていますように。