「けんか」と聞くとネガティブなイメージがあるかもしれない。相手を傷つけて、傷つけられて、泣いて、怒って……、精神的にも体力的にもすり減ってしまうのは確かだ。それでも私は、けんかという魂のぶつけ合いをどうも愛おしく思ってしまう。
あれほど人間らしくて嘘がなくて、相手のことを考えてしまう、憎しみと愛情が居合わせる瞬間はない気がする。そんなけんか体験を、誰もが人生で一度は経験しているのではないだろうか。

小学三年生の頃、なぜか毎日私に話しかけてくるAちゃんという子がいた

私が初めて、家族以外とけんかをしたのは小学校一年生の時だ。小学校の校庭にある遊具で遊びたかったが、クラスメイトのMちゃんが独占していたのだ。Mちゃんは幼稚園から一緒の子で、特別仲良くはないが慣れ親しんでいた子だ。
「そろそろどいてよ!!」とふっかけた私に対して、Mちゃんは「なんでよ!!」と強気で返した。その後、遊具からお互いをどかせようと引っ張り合いになり、最終的に二人とも泣き出す次第だ。
見かねた担任の先生が間に入り、私達はお互い何が悪いのかも分からないまま「ごめんね」と口先だけで交わして落着した。このけんかの後、すごくもやもやしたのを覚えている。

三年生の時、小学校に入学してから初めてのクラス替えがあった。今まで話したことのない人とクラスメイトになり、担任の先生も変わり、とてもそわそわした。
それまでは幼稚園からの友達がクラスに沢山いたが、このクラス替えを機に「初めまして」の人ばかりの環境になったのだ。強気なくせに警戒心が強かった私は、自分から話しかけられなかった。
ただ、毎日なぜか私に話しかけてくるAちゃんがいた。Aちゃんはクラスが同じになるまで話したこともなかった子だが、いつも校庭で男子と木登りばかりしている印象だけはあった。
私は女の子とおままごとをしている側の生徒だったため、Aちゃんとは系統が違ったのだ。もちろん仲良くなるはずもないと思っていたが、会話をしていくうちに不覚にも仲良くなっていたのだ。

Aちゃんは話していくほど、面白い子だった。昨日観たテレビの話や好きなアイドルの話など話題が尽きなかった。木に登る面だけがAちゃんの全てだと思っていたのに、こんなにも色んな側面がある子だとは思ってもいなかった。
Aちゃんと関わり出したことで、毎日がワクワクする方向へと動き出した感覚があった。自分の知っている印象だけで人を判断してしまうのはもったいないのだと、身をもって学んだ。そして私達は朝から放課後まで、毎日一緒に遊んだ。

Aちゃんと仲良くなるにつれて、私達は何度も「けんか」をした

仲良くなるにつれて、私達はけんかが増えた。内容は様々で、しょうもないことからシリアスな内容まで。好きなアニメのキャラクターが被ったことで言い合いになったり、七夕の短冊に書いた願い事を大声で音読されて掴み合いになったり、どんなことでもすぐ「けんか風」に持っていって、最終的にしっかり「けんか」していた。
私達のけんかは毎回激しくて、本気だった。先生達も最初の頃は仲裁に入ったりしていたが、途中からは放置だった。
全てのけんかに共有していたのは、仲直りは自分達で自主的にしていたことだ。お互いの熱が冷めて、冷静になってから「あのさ、、ごめん」となるのがお決まりだった。その熱が下がるのが当日のこともあれば、一週間ほど要することもあった。
そして、仲直りをする度に心から嬉しさを感じるのだ。また今日からAちゃんとの楽しい日々が戻ってくると。
そもそもけんかしなければいいのにと思うが、私達はけんか重ねることでお互いの本心を知っていったし、大切な友達だと実感していった。そしてなにより、自分の想いはAちゃんには正しく伝わっていてほしいと思っていた。

Aちゃんとは今でも親友だ。お互い仕事もあるので、昔に比べて頻繁に会えないけれども、親友だ。突然、前触れもなくテレビ電話をかけてくるAちゃん、なんだか彼女らしくてホッとする。
幼少期に飽きることなく本気のけんかを重ねたことは、とても大切で愛おしい時間だったのだと、今感じる。そもそも大人になると、純粋に「けんか」と呼べるけんかはあまり起こらない。
伝えたい主張があってもどちらか一方が身を引いたり、けんかはみっともないという雰囲気があったり。こうして「けんか」になりきれずに、どさくさに紛れてしまった沢山の想い達は、今も私達の身の回りでうろうろしているのかもしれない。
自分の想いを相手に伝えて、相手も同じ温度感で返してきて、許せなくて、でも関わり続けたくて。あのなんともまどろっこしい、人間らしい純粋なぶつかり合いは、貴重な時間だった。

けんかで思いをぶつけることで、自分の存在を認識できていたのかも

振り返ると、幼い頃の私はけんかをして自分の思いをぶつけることで、自分という存在を認識できていたのかもしれない。これが初めての自意識なのだろうか。
大人になると世界が広がり、自意識を感じられるきっかけが増える。ただ、幼少時代にはそういう分かりやすいきっかけを持ち合わせていない。幼い頃の私は、何もない不安なところで自分という存在を認めるには、誰かと本心をぶつけ合うことしか術がないと感じていたのかもしれない。
けんかの都度酷いことを言ってしまう自分を、見捨てずに何度も関わろうとしてくれる人がいる。だから私も相手を受け入れ、一層関わり続けたいと思える。

Mちゃんとの一回きりのけんかと、Aちゃんとの何度も重ねたけんかは根本が違う。けんかを重ねられるというのは、そこに愛情があるからだ。どちらか一方が相手に対して諦めてしまったら、そこでけんか終了だ。
相手のことが大切だから、自分の想いはまっすぐに届いていてほしい。誤った理解で相手に届いてしまっていては、困るのだ。だからこそ、一生懸命に伝える。
けんかになってしまう時もあるがそれでいい。きっとけんかを重ねられるというのは、お互いがお互いを諦めていない証拠だ。とても人間らしく、愛おしい時間だ。