随分と長い間一緒にいた。そんな気がしていた。けれどその時間は、彼が家族と過ごしてきた長い人生の中では、ほんの一瞬の時間だったのだと思う。
あの頃の彼の気持ちは、今の私にもまだ分からない。同じ状況にならないときっと理解することは出来ないのだと思う。いや今更こんな歳になって、同じ状況になったとしても本当のところを理解することは難しいかもしれない。
彼がどれほどの寂しさを抱えていたのか、彼が私に本当は何を求めていたのか。

寂しさを抱えていた彼。写真の女性を見て、その原因が分かった

初夏の季節、私と彼が出会った頃、彼の家族は遠方にいて一人で暮らしていると言っていた。バイトをしながら学校に通い、金銭面で苦労している様子はなかった。

よく笑い、よく遊ぶ、その辺にいる大学生と同じように見えた。なんとなく一緒にいる時間が増えていき、なんとなく一番仲の良い存在になっていった。その頃から彼が何らかの寂しさを抱えていることは、私も心のどこかで感じていた気がする。

秋頃には付き合うようになり、私の仕事が休みの日は、ほとんど二人で一緒に過ごしていた。合鍵をもらい、バイトに出掛けていた彼に簡単なご飯を作って自分は自宅に帰るというような日も増えていた。
彼は思いのほか喜んでくれた。そして、この頃には彼が抱えている寂しさの理由を私はすでに知っていた。ある日、彼の部屋で一枚の写真を見つけた。沢山のものが雑多に入れられている箱に、それはたった一枚だけあった。

女性が優しい笑みを浮かべている少し古い写真だった。
誰が撮ったのか、どんな状況なのか、詳しいことは何も分からなかったけれど、それが誰なのかはすぐに分かった。
素敵な写真で、次の日には写真立てを買ってきて、彼の部屋の隅に置いておいた。勝手なことをして怒られるかもと思っていたけど、彼は優しい顔で「ありがとう」と言っていた。
週に何度か部屋に通う中で、写真立ての横に小さな花瓶を置いた。スーパーで買った安い花を飾り、行くたびに水や花を替えるようになった。

彼とすれ違う日々。写真に映る彼のお母さんに向けて、手紙を書いた

季節が何度か変わって、私と彼は上手くいかなくなっていた。学生と社会人の差、すれ違う考え方や時間。他にも色々あった。簡単には書き切れないくらいに。
あの日、写真が少しだけ傾いている気がして、戻すために写真立ての中を開けた。写真と一緒に入っていたのはピンク色の可愛い花が印刷されている薄い台紙だった。私は、その辺に置きっぱなしだったボールペンをとって、紙の裏に手紙を書き始めていた。写真に映る女性に向けて。
何故そんな事をしたのか。どこかで見た映画か何かの真似ごとだったのかもしれない。けれど、今となっては思い出すことができない。
彼への気持ち、彼を産んでくれて心から感謝していること、そして彼の寂しさを私一人では完全に埋めてあげられないこと。自分では幸せにすることが出来そうにないこと。

気が付くと私は泣いていて、でもペンを持つ手は止まりそうもなく、そのまま思うままに感謝したり謝ったりしながら必死に書いていた。
そして、写真立ての前に置いてしばらく眺めていた。たった数年前にいなくなってしまった彼のお母さんに届くように、と考えながら。
住所のないこの手紙を出すことは出来ないし、彼に見せることも出来ない。結局、そのまま鞄に入れて自宅に持ち帰った。

ありがとうの気持ちと、彼の幸せを願っていることを伝えたい

その後、劇的に関係が良くなる奇跡なんて現実では起きるわけもなく、しばらくして当然のように私たちの関係は終わってしまった。
何年も経って共通の知人から、いま彼は家族を持って幸せにしているという話を聞いた。私は彼を幸せにすることは出来なかった。あの手紙に書いた様々な気持ちもほとんど伝えることはなかった。
でも、それで良かったのだと今は思える。
あの時、自分の思いを手紙に記したことで、彼が一緒にいて幸せになれる相手は自分ではないことをはっきり自覚した。

あの手紙の宛先に住所なんて存在しないし、殴り書きのような内容だったけれど、一方的だったけれど、もしあの日、彼のお母さんがどこかで読んでいてくれたのだとしたら、ありがとうの気持ちと、彼の幸せを私も一緒に願っていることを伝えたい。
もう今は手紙も写真もなくて、あの日のことは私たちだけの秘密だけれど、この感謝の想いが少しだけでも届いていたらいいなと思う。