大学進学を機に、東京へ出てきた。あの頃の私には、目に写る全てのものが大きく見えて、その反面、自分がどんどん小さく思えた。
それでも彼は、ファインダー越しに私を「綺麗だ」と言って、「小説書いてるなんてすごいね」と、褒めてくれたのだ。この人となら、私は自信を持って東京を生きていける。あの頃は、確かにそう思っていた。
小説の表紙を撮影してくれることになって、打ち合わせで会ったのが、ちゃんと話した初めての日だったと思う。
彼は、同じ大学生なのに、妙に落ち着いて見えた。東京で生きてきた人なのだと、そういう匂いがしてきて、同い年なのに、五つぐらい年上に思えた。
彼はゴツゴツとした重いカメラを持ち上げて、山茶花にフォーカスを当てた。剥き出しになった片方の目が、寂しそうにその花を見つめていたのをよく覚えている。
それから、白い背景の前に私を座らせて、プロフィール用の写真を撮った。さっきより、柔らかく微笑んだ目元が、レンズ越しにも見えた気がした。
写真を撮ることをやめ、彼は動画編集を始めた。置いていかれた私
「コンクリートに染み込んで、消えてしまいたくなるときがある」
打ち上げの居酒屋で、彼はそう呟いた。酎ハイを三杯ほど飲んだ後だったが、酔っ払っている様子で言ったのではなく、いつでも、本当にそう思っているのだと、声の響き方が語っていた。
たぶんそのとき、もっとこの人のそばにいたいと、私は思ったのだろう。それから数ヶ月の本の制作を終え、私たちは付き合うことになった。
私は、彼の撮る写真が好きだった。東京の中でも、陽が当たらないような路地裏や、ゴミの溜まった自販機の角を、ちゃんと写した。そういう、真っ直ぐな写真に、私も救われて小説を書いていた。
自分が美しいと思ったものが、評価されない社会で、それでも書き続ける勇気をもらっていたと思う。けれど、剥き出しの心は、壊れるのも一瞬だった。
彼は、段々と、写真を撮ることを無駄だと言うようになった。お金にならない、と言って、動画編集のアルバイトを始めた。
とても熱心にパソコンに向かう彼を見て、生きていくためには、そういう変化が必要なのだろうと、納得していた。私だけ、夢の中に置いてかれてしまったのだと思って、勝手に傷ついた。
自分の会社を立ち上げた彼。彼が報われて幸せになるならそれでいい
彼はしばらくして、自分の会社を立ち上げた。彼の努力が本物だということは、そばで見てきた私が一番知っている。だから、月に何百万と、彼が得られることは相応のことだった。
彼が、報われて幸せになっていけるなら、ただそれでよかった。もう、コンクリートに染み込んで消えたいなんて、言わなくて済むなら、こういう人生で構わない。私は心からそう思っていた。
「無能な奴は、死ね。女はしゃしゃり出るな」
付き合い始めて一年が経った頃、彼はそういうことを、よく言うようになった。会社でのストレスだと思って、頷いてあげることしかできなかった。けれど、そういう言葉に頷くたび、自分の本心が消えていくようにも思えた。
彼は私に、奨学金も払ってあげるから、高級マンションに住ませてあげるから、一生、専業主婦としてそばにいて欲しいと言った。そんなふうに考えるようになってしまったのは、頷き続けた、私のせいだ。
本音を言うことを避けて頷き続けた。それは愛なんかじゃなかった
「私、お金は自分で返したいし、いろんな仕事を経験して、もっと小説を書きたい」
受け止める愛しか知らなかった私は、いつの間にか、本音を言うことを避けていた。本音は小説に昇華されていくから、彼になんか、言う必要なかったのだ。けれど、それは愛なんかではなくて、ただの誤魔化しだったことを知る。
「お前の小説なんか、誰も読んでないんだよ。これから先も、誰にも読まれることなく、消えていくんだ」
彼は、私の首に爪を立てながらそう言った。私は、彼の前で初めて泣いた。やっと本音で話せたことが嬉しくて、絶え間なく涙を流した。
彼をふって見上げた東京の空は、特別に大きくなんてなかった。私がずっと故郷で見上げていた空と、何も変わらない空だった。
きっと、幼い私たちが撫であった漠然とした不安だけが、東京のコンクリートに染み込んで、消えていったのだろうなと、思う。