物心ついたときから、父は忙しく働いていた。週に一度は泊まり込みの仕事があったし、時々出張で何日もいないこともあった。普段から残業が多かったようで、珍しく就寝時間より前に父が帰ってくると、幼い私がとてもはしゃいで、眠るどころではなくなった。
母はずっと専業主婦をしていた。家を清潔に保ち、温かい料理を作り、私を育てた。父の仕事着に毎日アイロンをかけ、出張の支度やお弁当を欠かさず用意していた。
私はこのような両親に育てられた。そのため、令和の時代にもなって、昭和じみた価値観を持っている。
結婚は幸せの象徴。女は家に入る。家事と育児をし、夫を支える。
私の昭和じみた幸せの価値観は、自分自身を見つめるときだけの物差し
23歳で結婚して、25歳で子どもを産んだ。仕事は産前ぎりぎりまで続けたが、今はしていない。子どもがまだ1歳で小さいのもあり、家事を完璧にできていないが、概ね良好な家庭環境を維持できている。
他人から見れば、前世代的と思われるような生き方かもしれない。様々な形を認めようと世の中がうねりを起こす中、過去の悪しき慣習とされている形に私たち家族は近いだろう。
先に述べたように、私は古い考え方をする。この価値観において、幸せかどうかの判別をしている訳だが、それは自分自身を見つめるときだけの物差しにすると決めている。
他人に押し付けるなんて、絶対にしないしできない。そうやって生きてきた。
今の時代、女だって一生働かなきゃ!
あー、専業主婦? 保育園は? 子どもが何歳になったら働くの?
ずっと家にいるとか死んじゃいそう。
元職場の人や同級生と話すと、大抵二つ目の話題がこれだ。私は、大きなお世話、と脳内で毒づく。
遠方で頼れない実家、コロナ禍、夫の仕事。現状を鑑みて、これが最適解であると結論に至った私と夫を否定しているのに気づかないのだろうか。
私の生き方が間違っている前提で心配し、鼓舞してくれる彼女たち
上手に貼り付けた笑顔のまま、当たり障りのない返答をする。そうですね、と。
彼女たちはばりばり働く人ばかりで、きっとそこから逸脱している私を心配し鼓舞してくれているのだ。己の価値観が正しく、すべからくそうあるべきだと思い込んで。
そもそも、なぜ私の生き方が間違っている前提で話が進むのか。専業主婦をすることに不満はないし、夫も賛成している。
もしかしたら将来、子どもが幼稚園に入る頃にまた働くかもしれない。けれども2人目の子どもやコロナ禍がどうなっているか、不確定なことが多すぎる。
いくつか想定している未来の道筋には、働いている私も、家庭を守る私もいる。彼女たちの中では、専業主婦を続ける私の可能性が存在しないのだ。そんなの不幸せだ、と言わんばかりに。
誰かに迷惑をかけているなら考えを改めたい。しかし、我が家という単位だと不満も何もないのだ。
それぞれの家庭で、相応しい形は様々。外野が否定するものではない
専業主婦(夫)そのものが悪だと言う人もいる。税金を納めず、社会保障は扶養に入って受けるだなんて。けしからん、と。
個人的に、専業主婦(夫)とは、パートナーと役割分担をしている感覚だ。仕事と家庭。それぞれ半分ずつ担うより、分業した方が効率が良いだけ。
例えば、残業や休日出勤もある激務なパートナーがいたとして。こちらで家事育児、家のことを全てこなす必要がある。その上で働いて、生活を破綻させることなく健全に暮らせるだろうか。私はそうは思えない。
それぞれの家庭で、相応しい形は様々だ。外野が頭ごなしに否定するものではないはずだ。
多様性が許されるならば。悪しき慣習もまた、必要とする人がいるなら許されるのではないか。良し悪しを決めるのは誰なのか。どうも世の中が変わるために、共通の敵とされてしまったと感じている。
正直、生きづらい。肩身が狭い。申し訳ない。そういう感情が、息をしているだけでつきまとっている。
真に憎むべきは、正当性なく許されない事実であり、誰かが納得して選択した事柄を糾弾していいはずがない。人は皆、生まれたときから培われた価値観をもとに日々を過ごしている。それを押し付けるのではなく、認め合うことが成熟した社会への第一歩ではないだろうか。