26歳はママがパパと結婚した歳なのに、私は何も考えていない。そして、それを誰もとがめない。
バブル時代、「女性の適齢期はクリスマスケーキ」なんてセオリーがあったらしいが、私は容易に年越し蕎麦になりそうだ。越せないかもしれない。

友人がSNSに載せる結婚や妊娠の写真。今の私にとって現実味がない

私は仕事に没頭していることを誇りに思っている。私には良い会社を目指さない、という選択肢はなかった。
劣悪なブラック企業で身を粉にして働く父の姿は、幼い頃の私によほどのインパクトだった。母は身体が弱くて、少しのパートタイムしか働けなかった。
父がある日、過労や、過労による事故で死んでしまうのではないか、と恐ろしかった。なんとなく社会には負のスパイラルがあるような気がして、そこに吸い込まれまいと、私は受験も就職活動も血眼だった。性別について考えたことなどなかった。

社会人になり、3年が経った。会社で男性と何ら差分なく働いているが、最近SNSでは女友達ばかりに見える変化がある。ウェディングフォト、マタニティフォトを載せ始めた同世代が出てきたことだ。
遥か遠い存在である「第1波」は学歴も職歴も比較的早く手放していると感じ、彼女達をどこか見下す自分がいる。結婚、ましてや出産という事象は、今の私にとって何の現実味もまとっていない。見上げているのかもしれない。

結婚について親が何も言わないことに拍子抜けして、少し落胆している

大学4年間の学費をローンで自己負担する人も、親に結婚資金なんて用意されていない人も、この時代ありふれている。私だけじゃない、私だけじゃない。可哀想なふりをできるほど、恵まれていない境遇ではないだろう。ないものを恨まず、少なくともあったもの、築けたものをありがたく思いたいはずだ。
「貧しくて中学・高校はアルバイトばかり、大学も行けず仕事も限られて苦労したから、自分の子供に同じ思いをさせたくない」という父の言葉は、今思い返せば純粋な気持ちだったのだろう。でも、私は何度も聞いているうちに「成り上がってくれ」と脳内変換して飲み込んでいた。

だから今、結婚について親が何も言わないことに勝手に拍子抜けして、少し落胆している。いっそのこと多少プレッシャーがあれば、なんて思う。
女の子だから、なんてハンデなど今までなかったから、今更出てくるはずもないのに。私が私以外の誰かのために生きることなど、誰も望んでいなかったのに、いつから自分で自分にムチを打って走っていたのか思い出せない。

経済的にも精神的にも自由なのに、自由がこんなに「不安」だなんて

気づく。自分の判断について、周りの人間がどうだからと言えなくなった。都会で私は自立して、父は定年退職した。母の病気は以前よりよくなり、下の兄弟はもうすぐ社会人になる。
いつのまにか経済的、精神的に自由になったのに、自由がこんなに不安だと知らなかった。誰も、ぜんまいを巻いてくれない。

甘えることも許すこともできなくて、ひたすら恋愛下手だから、最近1年続いた彼氏をまた、突き放してしまった。
ケッコン、空っぽの言葉、何も感じられない。愛してくれたのに、こんな私に捕まってごめんね。自由と向き合い、時間をかけて自分を愛する練習をしなければ、自ら望んで誰かに寄り添う覚悟も理由も、出てこないのだろう。そして、それを誰も咎めない。