新しい職場に異動した初日、不安でいっぱいで泣きそうな私を、彼はちょっと遠くの席から手招きして、隣に座らせた。
「組むことになったから、よろしく。基本的に何でも自分で出来るけど、出来ることはやってくれると嬉しいな」と言った1つ上の先輩。
職場で出会った先輩。こんなに尊敬できる魅力的な人は初めて
彼はその言葉通り何でも自分で出来たけれど、よく私を隣の席に呼んで、意見を交換しながら2人で夢中になって資料を作った。
年次も1つしか変わらないのに、彼は私が持っていない資格をたくさん持っていて、色んなことを教えてくれた。私がミスをしても決して怒らないし、機嫌が悪くなったりもしない。
そして、悠然と大きな会議を仕切り、仕事の雲行きが怪しい時には「嫌だな~やる気起きないな~」と私にしか聞こえない小さな声で弱音を漏らす。
彼が外回りをしている間に1人で資料を作っていたら、ちょっときて、と男性ロッカーの前に私を呼び出し、「疲れたと思うから」とお菓子とコーヒーを差し出してくれる。
座っていると気付かないけれど、すらりとした長い脚に細身の身体はスーツがよく映えた。
一緒に仕事をしていてこんなに尊敬できて、魅力的な人は初めてで、いつしか彼のことで頭がいっぱいになっていた。
先輩とどうにかなろうという気持ちはない。私には夫がいるから
資料の作成がひと段落つくと、大体いつも隣に座ったまま、他愛もないおしゃべりをしていた。実家同士が近くて隣の小学校に通っていたり、ミュージカルを見るのが好きだったりと共通点もたくさん見つかったし、私と彼の感覚はよく似ていた。
将来、子供を育てながら今の仕事を続けるのは難しいと思っている私は、「偉くなりたいと思っていないし、30歳くらいで辞めたいんですよね」と度々口にする。
彼は「それは寂しいな」と言いながら共感し、「奥さんはパン屋さんとかで好きな時間だけストレスなく働いてくれればそれで良いんだよね」と言う。
それはまさに私が理想としている生き方で、「そんなこと言ってくれる人と結婚したかった~」と冗談っぽく本音を口にしてみる。彼は静かに笑うだけ。彼はフリーだと言うけれど、私は夫がいる。
夫婦関係は上手くいっていると思っているし、夫のことは大好きだ。だから、この人とどうにかなろうという気持ちはない。
気になって仕方がないのに、これ以上近づいてはいけない
彼にとって、私は後輩以上の何者でもなかっただろうし、私も彼を先輩以上の存在にしないように必死に心に蓋をした。仕事だけの繋がりでいられるように、職場を出てしまえば、連絡先も知らない。
でも、もし私が既婚者じゃなかったら、もうちょっとゆっくりおしゃべりしたいからご飯に行きましょうと誘ったり、彼が「一緒に観に行く人がなかなかいないんだよね」と言っていたミュージカルに、「連れて行ってください」と堂々と言うことができるのに。時々そんな想いが心の奥底に芽生える。
気になって仕方がないのに、これ以上近付いてはいけないというもどかしさは、初めて経験するものだった。彼の転勤が決まった時、私の心は揺れた。このまま離れてしまって後悔しないだろうか。せめて、最終日に手紙に想いを託すことくらいは許されないだろうか。
「先輩以上の存在」にしないまま、彼を見送ることを選んだ
しかし、手紙は書けなかった。みんなと同じメッセージカードに、「お世話になりました。一緒にお仕事させて頂き、楽しかったです。色々学ばせて頂き、ありがとうございました……」といつもと同じような文章を書いた。
心の内を伝えてしまったら、次にどこかで顔を合わせた時、彼はきっと同じようには笑ってくれないと思った。私は彼を先輩以上の存在にしないまま、見送ることを選んだ。
今、彼はどうしているだろうか。彼女は出来ただろうか、はたまた、結婚しただろうか。私は、他人の幸せを心から願えるほど、器用に生きられていない。
でも、私には手の届かない存在だったけれど、彼だけには可愛い奥様を見つけて、幸せな家庭を築いて欲しいと心から願う。
あの時、想いを伝えられなかった先輩へ。好きでした。