うーん、ばれたか。
文章も前よりは書けるようになり、成長を感じていた矢先のことだった。私の正体がバレた。
私の目にもつくSNSで、私の正体がわかっていなければ書かれないことが、書いてあった。

確証はないけれど、ほぼ確実だ。ここで身を引くのが賢明だと思った。
名を変えて、続けることもできたかもしれない。まだ書きたいこともあった。でも、もうここまでだ。一番書きたいことは書けたし、本当に大事な事は、自分の胸にしまっておいた方がいい。ボロを出した時点で、私はもう終わっていた。

どんな形であれ、特別な存在ではなく、社会を形成する人間の一人になること。それは誰かのいう正しい形に自分を沿わせることではなく、自分のなりたいものになった上で、歯車の1つになること。
多くは語らず、共に過ごす時間も短かったけれど、距離があるからこそ何より大事で、私のことなど何でもお見通しな、親友のこと。
どちらも、今更長ったらしく書くべきことではないと思ったのだ。

無言の安心感の心地良さこそ、私が書くエッセイの根底にあるテーマ

最初の投稿は、一年半ほど前だっただろうか。
とにかくお金がない中、時給に見合うかは分からないけれど、これでお金がもらえるならと、当時は一件あたり千円の報酬目当てで、エッセイを書いた。

だんだん、自分の想いを言葉にできること、それを誰かが読んでくれることが、楽しくなってきた。書くことで、自分の気持ちを整理することができたり、自分でも思いもよらぬ方向へ文章が広がったこともあった。
報酬制度が廃止されてからも、続けた。読むのも、書くのも楽しい。だからまた、見に来るんだろうな。

私の拙い文章にも、付き合ってくださった編集部の方々、朝日新聞社の方々、そして読者の方々、本当にありがとうございました。
そしていつも、投稿前の文章に目を通し、書く前にはテーマも一緒に考えてくれた彼氏、ここまで私を育ててくれた両親、私の考えの元を作ってくれた祖父母、なんだかんだ小さく気を遣ってくれていた弟、いつも温かく見守り、行くべき道を照らしてくれた師匠、どこまでもついてきてくれた弟弟子たち、私の生きる原動力だった親友も、ありがとう。本当に、私にとって大事な人たちです。

分かりやすいものが歓迎される世の中にあって、多くの人から、分かりにくくも温かく見守ってもらえたことに感謝し、周りを見渡せば、きっと誰しも、そういう繋がりに昇華させることができるものを持っていること、そして無言の安心感の心地よさに、気がついてもらえたら嬉しい。それが私のエッセイの、根底にあるテーマだったと思う。

初めて採用されたエッセイ。ここには、尽きない思い出がたくさんある

これからは、つらいことをぶつけるのではなく、穏やかに受け止め、笑って生きる未来が待っている。きっとこの先も、一筋縄ではいかないことばかりだけど、私たちは立ち向かっていける。いつまでも、感傷に浸っているわけにはいかない。前を向けるようになったのも、ここで書くことができたおかげだろう。
そして私が次の場所へ辿り着くことを、待っている人たちがいる。
先に挙げた身近な人々に加え、今近くにいてくれる人たちだ。だから、私は行かなくちゃ。

ここがあったことで、救われた思いがあったこと、ここで受け止められて、成仏した思いがあったこと、その経験は、きっと私の中に残り続ける。
居心地はいいけれど、それでもいつかは卒業する、学校のようなものだった。
不登校になっても、いつか卒業できたらいいし、気がすむまで、いていいんだろう。

私はきっと、初めてエッセイが採用された時のことは、食べていたラーメンの味ごと忘れないし、たった一日でも、私のエッセイがトップを飾った時の感動が薄れることはない。
編集部からの、心のこもった感想に喜んだり、ふむふむと考えたり。さすが大手新聞の編集部。訂正も褒め方も上手いんだなと、当たり前のことに感じ入ったり。

っていうか私の書いた文章なんぞが、そんな大衆の目につくところに出ていいのか?と慌てたり、え、あれも通っちゃったの??と、正直後になって思い返すと、不安になるエッセイが載ってしまったり、見事落選したエッセイを思い返し、あれはまぁ落としてもらえてよかったなと思ったり、思い出は尽きません。

これを読んでくれた全ての人たちが、前を向いて歩き出せますように

皆さんに、書いたものを見てもらっている裏で、こんなことが繰り広げられていました。共感してくださる方も多いかもしれません。重ね重ね編集部の方々、お付き合いいただき、ありがとうございました。
こういったやりとりがもう出来ないとなると、少し寂しいです。
それでもいつか、大きなことを成し遂げて、私たちでbeにでも載ってやろうと企んでいます。とてつもなく大きな野望ですが、その時は朝日新聞の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

この先は、結構険しいけれど、その分大きな幸せも待っている。
大袈裟な鎧を着たり、自分を大きく見せることなんて、必要ない。
そのままの自分を認めてくれる誰かが、親でも先生でも近所の人でも、居たらそれでいい。そしてきっと、いや絶対そういう人は、探したらいる。見つけられる。
だからたまには、ぐれたっていいから、自分に正直に、一生懸命生きて欲しい。凹んでも、一頻り落ち込んだ後は、また前を向いて、歩きだして欲しい。

師匠に拾ってもらった私は、運が良かったけれど、運が良かっただけで片付けて欲しくはない。
優しい人は、思っているよりたくさんいるから、今つらい思いをしている人は、そういう人に、見つけられる人になって欲しい。

これを読んでくれた全ての人たちの、未来が明るいことを祈ります。
どうか皆さん、お元気で。
またどこかで会えた時は、何も言わず、そっと見守ってくださいね。