「転校したいです」
なぜその一言が言えなかったのか。そんな問いを10年近くたった今でも考えることがある。

「面白くない」の言葉は「人間的に魅力がない」と言われているようで

確かあれは夏休み前の三者面談。私の目の前には担任であり、部活の顧問だった先生がいて、隣には母がいた。
「この学校で自分ができることはなんでもサポートするし、もし転校したいならそれもサポートしたいと思っている。あなたはどうしたい?」
そう聞かれた。私はこの学校にいることはもう限界だと思っていた。でも、私の口から出たのは違う言葉だった。

「ここに残ります。なんか負けたような気がするので」
中学入学当時は上手く行っていた。友達もちゃんといたし、勉強も上々にできていた。部活は途中で変えたけど、上手くやっていた。
状況が変わったのは2年生になった頃だった。この頃から、私は友達の何気ない言葉に傷つくようになる。

例えば、私は本が好きで、社会問題にも興味があり、勉強が好きだった。ある日、友達がそんな私を「真面目やね。面白くない」と苦笑交じりに表現した。
私の地元である大阪は人の魅力に「面白さ」が重要視される。つまり「面白くない」ということは「人間的に魅力がない」と言われているようなものだった。そして、私が嫌な顔をすると、「気にしすぎ。繊細やなあ」と言われる。

このように小さな言葉にいちいち反応してしまう私は、みんなから「ガラスのハート」とからかわれた。それから私は真面目であることや繊細であることが強烈なコンプレックスになった。そのコンプレックスを隠すように、面白くもないのも笑ってしまったり、傷ついたことがあっても、ひきつった笑顔で何も感じていないように振舞う癖は、今でもなくならない。

限界ながらも迎えられた卒業。学校に残る選択をした私の本音は…

その後、私は自分を守るために「自分がどう見られているのか」を気にして振舞うようになった。面白い人になれるように、テレビでお笑い番組やみんなが見ている番組をくまなくチェックし、明日はどういう話題を話そうかベットの中で考えた。

でも、それをすればするほど、私は相手の感情に振り回され、常にいつ嫌われるのだろうと不安になった。学校には出席していたが、私は情緒不安定になり、家の中で泣き叫んだり、心臓が痛いと病院に通った。

今思うと限界を超えていたのかもしれないけど、先生や家族に支えられ、私はなんとか学校を卒業した。卒業した時は達成感よりも、安心感が残った。
「ここに残ります。なんか負けたような気がするので」
今になってこの言葉の意味を考える。多分、私は怒っていたのだと思う。自分は間違っていないと信じていたからこそ、「転校する」ということは自分にとって「敵前逃亡」の選択だった。

選択肢を持てるようになった私に感じた成長。一番の味方は自分だ

自分が間違っていないのなら、自分はここにいてもいいはずだ。自分の価値観は受け入れられるはずだ。転校してしまったら、それは私はこのコミュニティに適合できなかった「不適合者」になってしまう。
「自分がいるところに留まり、最後までやり抜く」。そんなやせ我慢の美徳観を強く刷り込まれていた私は、場所を変えることは「甘え」だと判断し、自分にNOを突き付けた。

もしあの日に戻れるのなら。今の自分であの場面に戻れるのなら。迷わず私は転校することを選ぶと思う。
なぜなら、自分がどこにいるかは関係なく、自分で選択することが何より尊いことだと知ったから。選択するということは自分の声をちゃんと聞けて、自分を信じられるからこそできる。だから、そこに留まることも、場所を変えることも、ちゃんと選択した立派な答えだと、今なら思える。

もっと言うなら、今は海外留学や地方への国内留学などの選択肢を知っているから、そう言えるのかもしれない。「あの日に戻れるなら」と思うのは、他の選択肢を知っているから言えることで、選択肢を持てているということは、それだけ私が少し成熟したということなのかもしれない。
もしあの時の自分に会えるなら、「あなたが感じていることは間違っていないよ。人と違うことを恐れないで」と抱きしめてあげたい。
だって、自分の一番強い味方は自分だから。