あの夜がなかったら、クラスで友達と会話するという、当たり前のことができていただろうか。もしかしたら、7歳にして自ら命を絶つという選択まで追い込まれていたかもしれない。
児童館や家では普通に話せるのに、クラスで突然会話ができなくなった
今から17年前、大きな赤いランドセルを背負い、私はワクワクして小学校に入学した。
双子の姉とは違うクラスだったが、同じ幼稚園に通っていた友達や、放課後の時間をともにする児童館での友達もいて、クラスでの生活は問題なく過ごせていた。最初の半年間だけは。
小学校に入って初めての夏休みが終わったころ、私は突然クラスの中で普通に会話をすることができなくなった。話すことが恥ずかしい、声を出すことが怖いという感情が芽生え、休み時間や給食の時間も常に口を閉ざしていた。
不思議なことに、授業が終わってクラスを離れ、児童館や家に行くと友達や家族と普通に話すことができる。家に帰ると「今日も学校楽しかった」と家族に伝え、自分がクラスで話すことができていない事実は知らせていなかった。
次第にクラスメートも私が話せないのを冷やかしたり、面白がったりするようになっていった。「何でもいいからしゃべってみてよ」「何で話せないの」と、休み時間のたびに私を取り囲むクラスメート。口だけ笑ってごまかしたり、その場から逃げたりして何とか乗り切っていた。
クラス生活がどんどん苦痛になり、母に「転校したい」と伝えたけど
冬になるころにあった席替えは、まさに最悪なものだった。私に対するいじめの中心になっていた男子2人が、私の両隣の席になったのだ。
授業中も給食や掃除の時間も、彼らと過ごすときは常に冷やかされる毎日。日直などで前に立って話す必要があるときは頑張って小声で話すようにしていたが、そのときも「何で今だけ話せているの」と質問攻めに遭い、クラスでの生活が苦痛でしかなかった。
そんな毎日を過ごす中で、母が私や姉に「君たちがもしいじめられていたら、すぐに守るからね。本当に酷い目にあったら転校とかも考えるからね」と入学前に言っていたのを思い出した。
母にこの状況を伝えたら、何かが変わるかもしれない。でも打ち明ける勇気が出ない。私がいじめられているのを知ったら、母は悲しむだろうし、余計な心配をかけたくない。
7歳にしてそんなことまで考えていた私は、いじめられているという事実までは言わずに「できれば転校したい」ということだけ伝えてみることにした。母は「転校?なんで急に。そんなのすぐにできるわけないよ」とまともに取り合ってくれなかった。
入学前に私たちに言っていたこととまるっきり違う母の返答。予想外の反応だったため、これ以上何を打ち明けても無駄だ、と私は察した。
「何かあったの」。母の問いにしまっていたものが溢れ、涙がこぼれた
学校では口を閉ざし、両隣の男子に冷やかされ、児童館や家では何事もなかったかのように笑顔を振りまく日々。2パターンの私を演じる毎日に慣れていたつもりだったが、いつの間にか自分自身がいっぱいいっぱいになっていた。自分で命を絶つという選択も頭によぎる寸前だったかもしれない。
ある日の夜、母と姉と普通に夜ご飯を食べていた。その時の私の反応や表情が、いつもとは違うことに母は気付いたのだと思う。「何かあったの」と母に問いただされ、私の中にしまい込んでいたものが一気に溢れかえり、ぽろぽろと泣き出した。どこまで話したのかは覚えていないが、今の学校での状況を母に伝えた。
そこからは展開が早かった。母は学校に行って担任と面談をし、担任が私の両隣の男子を呼び出して注意をしたり、クラスの中でも冷やかしがあったときはすぐに叱ってくれたりした。
やっと落ち着いたころには1年生が終わり、クラス替えで例の彼らとは別のクラスになった。新しい担任と友達に囲まれて2年生では安心感を覚えたのか、私は自然と誰とでも話せるようになった。
授業で知った「場面緘黙症」という言葉。それはまさに7歳のときの私
あれから十数年たって教育大学に入った私は、教育心理学の授業で「場面緘黙症」という言葉を学んだ。特定の場所で話すことができず、家など安心できる場所では話せるという、まさに7歳のときの私だった。私はあのとき一種の障害を患っていたこと、私と同じ症状をもっていじめられている子どもが少なくないことを知った。
いじめの問題は年々深刻化しており、「少しでもいじめだと思ったら先生や家族に知らせよう」とよく言われている。しかし、幼いながらも自分のことで心配をかけたくないと思ってしまい、信頼できる親にもなかなか打ち明けられないのだ。
誰にもいじめのことを伝えられずに苦しむ子どもの気持ちが、私は痛いほどよくわかる。子どもと関わる仕事をしている今、そのような子どもの気持ちに寄り添いたいと強く思う。
あの夜、ため込んでいたものと一緒に溢れた私の涙が、私を救ってくれた。今の私を作ってくれた。