「自己責任」って、一体何だろう。最近、いや、それ以前からよくこの「自己責任」という言葉を耳にする。
一体、いつ誰がこのような無責任な言葉を投げつけたのか。

「部長!この企画やってみたいんですけど……」
「いいかもしれないね。でも、失敗したら自己責任ね」

「旦那と別れることになっちゃって……」
「でも、それって自己責任じゃない?」

「いい職につけない……どうしたらいい?」
「それも自己責任」

ここまでナチュラルに直接言う人はいないが、なんでも「自己責任」という言葉で解決されていることが多い印象を受ける。私だけだろうか。

「自己責任」というずるい言葉で、どれだけの人が打ちのめされただろう

「自己責任」は、ずるい言葉だ。
「お金も学歴も職もなくて……助けていただけませんか?」という救いの叫び声を、
「いやいやいや。そこに生まれたあなたが悪いんです。何もしないあなたが悪いんです。全部、あなたの責任です」と突き放すことができる。
この言葉のせいで、どれだけの人が打ちのめされただろう。何人がこの言葉に押しつぶされてきただろう。

「自己責任」。この言葉は様々な意味を持ち、多様な場面で使われる。本来の意味とは程遠い言葉として使われてはいないだろうか?
自己責任という言葉は、常に私たちの上に降りかかる。まるで大粒の雨のように。これから先、降り止むことはあるのだろうか。私にはその先が見えない。
あなたはどう思うだろうか。

「セーフティーネット」。これもよく聞く言葉。
でも今、このセーフティーネットから外れる人が多くなっているという話を耳にする。
救済を求めてやってきた人たちは、その網目から零れ落ちていく。
彼らの行き先はどこなのだろうか。彼らに手を差し伸べるのは、いったい誰なのだろう。
セーフティーネットの網目から零れ落ちてしまった人たちにも、「自己責任」という言葉を盾に使い、切り捨ててしまうのか?

私たち「国民の声」は、政治家に届いているのだろうか?

18歳以下に10万円を給付すると、声高々に叫ぶ政治家がいる。
その一方で、それに反対の声を挙げる人々がいる。
「学生だけではなく、所得が低い人にも給付金を!飲食店に救済を!」
……はて? この言葉は政治家に届いているのだろうか?

救済の声を挙げているのは私も同じだ。家は決して裕福ではないし、300万円以上の奨学金を借りて大学へ行っている。
奨学金の返済のためにアルバイトを詰め込み、就活のため時間を潰し、授業料の元を取ろうと必死に勉強している。
挙句の果てに疲労が原因で、突発性難聴になり、私は耳が聞こえづらくなった。
これも「自己責任」? 全て私が悪いのだろうか。

私なんか、まだぬるい方だ。困窮した状況に追い込まれ、声を上げられない人が大勢いる。
いくつもの「自己責任」を背負わされた人間は、どうなってしまうのだろう。
社会から排除されるのか? それとも自滅を選んでしまうのか。

自己責任で押しつぶされそうな人を「救う」のが政治であってほしい

「自己責任」で押しつぶされている人たちを救うのが、政治であって欲しいと私は願う。
聞いてほしい。小さな声を。その声は今にも消えそうで。それでも、生きている証を示している。
人々の上に立つ人ほど、下にいる人のことに気づかない。
でも気づいてほしい。私たちはここにいるのだ。

同時に私たちも声を上げなければならない。
「どうせ変わらない」「声は届かない」
そう思ってしまったら、私たちは透明人間として、本当に存在しなくなってしまう。
「いないもの」とされてしまう。それは恐ろしいことだ。
だからこそ今、私たちは言うべきなんだ。「私たちはここにいるよ」と。

そして、政治は彼らの声に耳を傾ける存在であってほしい。救済の手を差し伸べてほしい。
独りよがりな願いかもしれない。でも、「自己責任」の呪縛から解かれたその先には、きっと、素晴らしい世界があるはずだ。
「止まない雨はない」と誰かが言っていた。それが現実になったら、これ以上嬉しいことはない。
私たちはそれぞれの環境でそれぞれの時間を生きている。それと同時に多くの部分を共有し合っている。全員で1つの社会を構成している。
1人欠けてしまったら、社会は成り立たない。少しずつ根底から崩れていくだろう。

声を上げることは勇気がいることだ。難しいことだ。それは私も自覚している。
私のような人間は、直接公に助けを求めることができない。もしかしたら私には、助けを乞う資格もないのかもしれない。そう思ってしまうことがある。
でも、誰かが声を上げなければ、この社会は変わりはしない。
だからここで叫んでいるのだ。文章を通じて。私の存在を。

今こそ救済の歌を響かせよう。政治に向かって。未来に向かって。生きやすい社会を作るために。