わたしが小学生の頃、プロフィール帳というものが流行っていた。名前や出身地など基本的な情報はもちろん、すきな食べ物や夢の話、フリースペースにはメッセージを書いて、みんなで交換し合いっこする。
その中に「すきな人は誰か」とか「どんなタイプの人がすきか」とか恋愛に関する項目があって。もちろん馬鹿正直にすきな人の名前を書く人なんてほとんどいなかったけど、小学生なりの駆け引きが繰り広げられた末、翌日の話題を全て掻っさらうような出来事が起きるほどの影響力を、当時のプロフィール帳は持っていたと言えるだろう。

小学生の狭くて平和な世界が、なんだか懐かしい。そんなプロフィール帳に、確か「何歳で結婚したいか」という質問もあって。当時のわたしはその質問に、無邪気に18歳と答えていた。
特別深い考えがあったわけじゃないけれど、少女漫画に憧れるごく普通の小学生だったわたしなりの、結婚への憧れが投影されていたのかもしれない。

自分が育った家族への不信感から、「結婚したい」と思わない

今年、わたしは27歳になった。小学生のわたしが結婚しているだろうと思っていた18歳のわたしを、とっくの昔に通り過ぎてしまった。
わたしは、独身だ。今のところ、結婚したいと思っていない。

わたしの結婚への憧れが薄れていった背景には、自分が育った家族への不信感がこびりついていると思う。わたしの父はいわゆる古い感覚の人で、家の中ではまるでお殿様のように振る舞っていた。父が家事をしているところを見たことがないし、アゴで母をこき使う姿にずっと腹を立ててきた。
小さい頃は、父に怒りを覚えるだけでよかった。なんなんだこいつ、とただただ軽蔑の目を向けていられた。
ところが大人になるにつれ、もしかしたらわたしは母と同じようになっていくのかもしれないと、恐怖を抱くようになった。黙って家事を全てこなし、黙って子育て全般を担い。
誰にも褒められず、誰にも感謝されない毎日を、わたしも求められている気がした。父だけでなく、社会そのものから、求められている気がした。

周りの大人が結婚や出産についてアドバイスするが、苦笑いしか出来ない

そんな「大人の階段」を登ってしまったわたしの気づきが、ある時を境に具体的な言葉となって自分の身に降りかかるようになった。
「いつ頃結婚するの?」「子供は産んどいたほうがいいよ」「女なら男を立てなくちゃ」「料理はそれなりに出来ないとね」と大して親しくもない「大人たち」が、わたしに「アドバイス」をくれるのだ。このアドバイスに対する逃げ道を、わたしは未だ苦笑い以外に見つけられずにいる。
大学を卒業してからは、周りでちらほら結婚出産を経験する友人も増えた。
なぜ、みんな耐えられるのか。わたしは、人のために家事がしたいんじゃない。わたしは、人のために子供を産みたいんじゃない。わたしは、人のために自分を押し殺すつもりはない。
なぜ、みんな平気なのか。わたしは、全く納得出来ないよ。

結婚という制度そのものに対しても、疑問を抱くきっかけがあった。世間一般にLGBTと呼ばれる、わたしの元恋人や友人たちの存在だ。
彼ら彼女らは、今の制度では法的な結婚は出来ない。異性間であれば当たり前に手にすることの出来る保障や権利を、享受することが出来ないなんて。おかしいじゃないか。
誰のための、結婚なんだろう。なんの為の、結婚なんだろう。結婚したいと願う人たちを一部だけ排除するなんて、どう考えても不平等だ。
偉い「大人たち」はいろんな理屈を並べるけれど、異性間の結婚でも「エラー」は山程生じているじゃないか。同性であること、心と身体の性に差異があることだけが、問題だとはわたしは思わない。結局は、人と人とのコミュニケーションの延長でしかないのだから。

既存の「結婚」という形に収まる必要はないのかなと考える

こんなに結婚にマイナスイメージを募らせてきたわたしだけど、この先ずっと一緒にいられたら良いなと思える人はいる。ただ、既存の結婚という形に収まる必要はないんじゃないかなと、今のところ思っている。
籍を入れなくても。名前を変えなくても。一緒に住んでいなくても。身体的な交わりがなくても。家事や育児を一方が担わなくても。子供を産まなくても。同性でも異性でも。パートナーが何人いても。

自分たちで、決めればいい。自分たちで、選べばいい。この先、もっとずっとカラフルな結婚のあり方が広まる社会を、わたしは生きてみたい。