婚姻制度(結婚)とは、なぜあるのだろうか。
私は長年、名字にまつわるあだ名で呼ばれてきた。私を下の名前で呼ぶ人は家族か高校時代の担任くらいである(高校時代の担任はなぜか問答無用で生徒を下の名前で呼ぶ人だった)。

日本の婚姻制度は欠陥だらけなのに、みんな惑わされる

だから、夫婦同姓には激しい拒否感があった。基本的に名字を変えるのは女性の方だ。私は兄と弟がいて、家の名前を残すために相手に名字を変えてもらうといった理由付けはできない。私の「名前」というアイデンティティのなかでも重要な部分を占める名字。
でも、結婚するとき、私が「名字を変えたくない」というのは、ただの私のワガママにしかならない。

そもそも、結婚をするのは男と女である前提で話していたが、世の中には同性のカップルもいる。彼ら(彼女ら)が、それぞれのパートナーとして生きるために「結婚ができない」ことが障壁になるのもおかしい。
このように私から見れば、欠陥だらけなのが現在の日本の婚姻制度だ。
なのにみんなこの「結婚」に惑わされる。

では私は「結婚しなくてもいい」と思っているのかといえば、それはNOだ。私は「結婚」がしたい。
それはなぜか。考えてみると、理由はいくつかある。
たとえば、どうも私は自分にかまけることが苦手で、面倒だと食事も取らなくなる。健康的な生活を送るために誰かと一緒に住んだ方がいいなというのが、一人暮らしを10年近くして私が思ったことだ。

また、東京で暮らしていると、1人だとどうしても狭い部屋にしか住めない。2人(や複数人)で共同生活をした方がより可能性が広がるということもある。
でもこれらは結婚しなくても、共同生活を営んでくれる人さえ見つかればそれで良い気がする。
ではなぜ「結婚」なのかといえば、頭をよぎるのは、「母を安心させたい」「祖母にウエディングドレス姿を見せたい」という思いだ。

いざ結婚となったら、婚姻制度への違和感を飲み込めるのか

なんだ、人並みの理由じゃないか。「私1人じゃないから大丈夫だよ」って母や祖母に言いたいだけなんだ。なんでそれが「結婚」というかたちでしか実現できないのだろう……。

恋愛は苦手だ。じゃあ割り切って利害が一致する人を見つけるために婚活をすればいいのでは?とも思うが、知らない人と会うという行為が億劫で、婚活は今のところ気乗りしない。
母や祖母を安心させる手段が他にもあったらいいのに。

たとえばバリバリに働いて、札束をなびかせながら1人で生きていけるわ!(どういうイメージだ)ってくらい稼いでいたらいいのかもしれない。
でも、残念ながら私は、働き方や働く環境を選り好みしてしまい、なんとか1人で生きていけるくらいにしか稼げない。

恋愛ができない自分に対して、あの子もあの子もあの子も、できることが私にはできない、という劣等感を抱くこともあった。
それも今では薄くなってしまったが、安心させたい人たちを安心させることができる選択肢が1つしかないことはもどかしい。
それにいざ結婚となったら、私は今抱えている婚姻制度への違和感を飲み込むことができるのだろうか。

心を許して一緒に暮らせるような友人は皆来年には結婚しそう

名字を変えるのは面倒だけど、結婚するなら仕方ないという人もいれば、彼と同じ名字になれるのは嬉しいという人もいる。みんな普通に現状の婚姻制度を受け入れている。そのことに違和感を覚える。不満があっても受け入れるのが日本人なのか?

なんだか、主語デカになってしまったが、当たり前にちょっとした不満を受け入れて、「結婚」を選ぶ友人たちに抱く違和感は、自分がいざ同じ立場に立ってしまえば気にならなくなるのだろうか。

独身仲間がいれば、そんな友人と一緒に住むというのも新たな家族のかたちとしては良いのかもしれない。しかし、残念ながら、心を許して一緒に暮らせるような友人は皆来年には結婚しそうだ。

27歳という微妙な年齢。これからの私はどうなるのだろう。
タイムリミットは近い。
それは「30歳」というリミットではなく、祖母の寿命という、より現実的なものだ。祖母が生きているうちにウエディングドレス姿を見せられるだろうか。それとも、ずっと1人でいて、そのうち母と住んだりする選択肢を取るのだろうか。

今の私にはどうなるのかわからないが、今は時の流れに身を任せたいと、そう思う。