「先に新しい家で待ってるからね」
そう言い残して母は住み慣れた家を出た。

いびつに残された父の荷物となけなしの家具だけが残された家を見渡すと、色んな感情がごちゃ混ぜになって一気に押し寄せてきた。

「うわ~、なんか寂しいかも」
そう独り言を吐いてソファに腰を下ろした。

長年暮らした家族や家と離れる事が、自分が思っていたよりもつらい

「なんで青のレザーなの~!?もっと普通の白とかそういうのがよかったのに~」
父が買ってきたソファを見て、母が嘆いていた姿を思い出した。

だが座り心地だけはやけに良くて、家族の人気の場所になっていたし、よく座るところは青い色が褪せる程に使用感たっぷりのソファになっていった。

ソファ1つでもこれだけの思い出がある。

長年暮らした家族と離れる事も、長年暮らした家を離れる事も自分が思っていたよりも精神的に参った。

テレビがなくなった部屋が寂しくて、父が持っていたラジオを出してきた。
たまたま付けたチャンネルでダニエルパウターの『BAD DAY』がかかっていた。

なんだか「泣いても良いよ」と言われた気がして、一気に涙が溢れ出た。

しばらくするとインターホンが鳴った。
カメラには当時付き合っていた彼が映っていた。

急いで玄関を開けに行くと、彼がもじもじしながら立っていて
「いやぁ、もしかしたら寂しいかなとか思って、甘いものも買ってきたよ!こんな時は甘いものとか食べなきゃ」
と、明るく振る舞いながらも心配してくれているのが痛いほど分かった。

何より"肩にもたれてもいい存在"が自分にもいたことに心底安心したし、嬉しかった。

彼がくれたシュークリームは、心のささくれを優しく撫でてくれた

1人でこの家を出るのは心が潰れそうだったからだ。
父が仕事を終えて帰ってきた時に、この寂しい家を見てどう思うのだろうか。
かなしくてやりきれないんじゃないだろうか、そんな事を思うと家を出る勇気が出なかったのだ。

彼にその事を話すと、
「じゃあまた夜に一緒にこの家に来ようよ」
とシュークリームを頬張りながら言った。

引っ越し先は笑ってしまうぐらいに近所だったのでそれも救いだった。

「クリームついてるよ。鼻に」

そんな何気ない会話が重かった心の中を軽くしてくれた。

長細い箱に綺麗に並べられたシュークリームと、胸元が切り落とされたバンドTをやたらと着こなす彼が心についたささくれを優しく撫でてくれたような気がした。

涙のツンとした匂いと甘いクリームとサックサクのシュー生地。

彼とはその後何年か経ってから別れてしまったけれど、未だにシュークリームを食べると優しい気持ちでいっぱいに満たされる。

私にとってはかけがえのない忘れられない、忘れたくない味の記憶だ。