Yves Saint Laurent(イブ・サンローラン)のBABYDOLLは、私の愛用の香水だった。
とても大切な知人と初めて出会ったときにも、この香水をつけていた。
もう纏うことのないであろうこの香水と、知人の汗が混じりあった狂おしく甘美なあの匂いを、私はずっと忘れられない。

香りを変えると必ず気づく知人との、平和でしあわせな嘘みたいな生活

私が使う香水やボディクリームを変えると、100パーセントの確率で気付いてくれる知人がいた。
知人とは、大学時代にアルバイトしていたお店で私を見つけ、拾ってくれた恩人である。
拾ってくれた、というのは、私を彼の家に住まわせてくれた、ということである。
知人は、
「いおさんは、何もせずにここにいてくれさえすればいいんだ。ただ、俺が帰ってきたら『おかえり』っていってくれればそれでいい」
と言って、私がそこで生活するために、食パン型ソファと本棚と加湿器を用意してくれた。
そして本当に、私はアルバイトもやめてしまって、大学へ行くとき以外、彼の家で何もしないで日々を過ごした。家事や買い物などもほとんどせず、ただ食パンソファの上で飼い猫のように過ごし、知人はそれをよしとしていた。
おままごとのように平和でしあわせな、嘘みたいな毎日だった。

BABYDOLLと知人の汗が混じりあう匂いは、狂おしいまでの幸福感

知人は、私の香りの変化に敏感だった。
香りが好きな私は、知人の家に沢山の香水たちを持ち込み、知人が仕事に行っているあいだ、その日の気分によって色々な香水やボディクリームをつけて楽しんでいた。
どこへ出かけるわけでも、誰に会うわけでもなく、ただ自分のためだけにその日の気分の香りを纏った。

それは大抵、Yves Saint LaurentのBABYDOLLか、L'OCCITANEのヘアクリームだったのだけれど、たまに違う香水やボディクリームをつけていると、仕事から帰った知人は、
「あれ、今日はいつもと違う香りがする。香水か何か変えた?」
と訊ねてくれた。
ほんの小さな変化に気付いてくれる、知人のそんなところがたまらなく好きだった。
BABYDOLLの香りもヘアクリームの香りも大好きだったけれど、私はBABYDOLLと彼の汗のにおいが混じりあった匂いがいちばん好きである。
一つしかないベッドに2人で寄り添って眠る夜、私のつけたBABYDOLLと、体温の高い彼の寝汗が混じりあった香りに包まれて眠るとき、私は狂おしいまでの幸福感に包まれていた。
この世に怖いものなど何もないと思った。私はこの人がいれば大丈夫だと思っていた。

知人との思い出には、いつもBABYDOLLの残り香がある

私はアセクシャルで性嫌悪だから、一つのベッドで一緒に眠るときも、彼はそれを理解した扱いをしてくれた。
だから、一緒のベッドで眠れたのだと思う。この知人だから、嫌ではなかった。
「俺は本当に君が好きだから、君の地雷原でタップダンスするようなことはしたくないんだ」
そう言って、私の嫌がることは絶対にしなかった知人。私を精一杯理解しようと歩み寄ってくれた大好きな知人。私がなにもできなくても、なにをしなくても、ただいるだけで肯定をくれた優しい知人。
多分、この先どんな人間と出会っても、この人以上に好きになれる人はいないだろうと思う、とても大切な人。
そんな大切な知人と出かけるたびに、私はBABYDOLLの香水を纏った。だから、知人との思い出には、いつもBABYDOLLの残り香がある。

今は知人の家を出てしまったけれど、知人と暮らしたしあわせな日々と、香水と汗の混じりあった匂いを忘れられない。
いつも正しくて優しくて、たくさんの愛をくれた愛しい知人。彼のことを思い出すのが苦しくって、私はBABYDOLLを付けることができない。