食とは満たす行為だ。

空腹具合とその時の気分に合わせて、食べたいものを食べたいだけ食べることで、腹が満たされ満足感を得ることができる。そして用途に合わせて満たし方を変えることのできる行為でもある。

仕事で疲れた日には、サクッとコンビニで好きなものを買って満たす。たっぷりと時間のある日は、好きな食材を好きな味付けで好きなだけ作って満たす。うれしいことがあった日は、いつも買う98円のシュークリームではなく198円の生クリームとカスタードクリームが入ったダブルシュークリームで満たし、もっとうれしいことがあった日は有名なパティスリーで1つ498円の丁寧にクリームが絞られた崩れやすい、けど格別に美味しいシュークリームで満たす。

食は自身を満たす行為であり、満たす行為は自分を大切にしてあげる行為だと思う。食は自分を手っ取り早く確実に「大切」にすることができる行為と言えるのではないだろうか。

私は食べることがすきだ。いや、もっと正確に言うと、私は自分を満たす行為がすきだ。

満たす行為がすき。

食によって満たされるのは、栄養と自己肯定感

それは当たり前のようだが、どうだろう。
空腹感は、苛立ちや不快感を生む要因のひとつだと思っている。空腹が満たされたらそのマイナス感情はたちまち身を潜める。
でも、食は果たして、空腹を満たすだけの行為だろうか。用途に合わせて満たし方を変えても結局満たされるのはお腹のみなのだろうか。

食にはもう1つ大事な要素がある。それは、「不足を補う」こと。
足りない栄養素を補う、というだけの話ではない。
私の場合、食によって、自身に足りていない自己肯定感を補っている。

自己肯定というワードが最近は常に付き纏ってくる。仕事に恋愛に友人関係、家族関係においても。自分を肯定して受け入れていく。私にとっては最も難しいことの1つだ。どこからどこまでを肯定していいのか。果たしてこの行為は甘やかしじゃないだろうか。何を基準に肯定するのか。周りと比べてしまい、ますます肯定できる内容などなくなっていく。正直これについては全く解決しておらず、未だに自己肯定が下手くそで常に不足しがちだ。

仕事を辞めて次も決まっていない宙ぶらりんな私だったある日。今日はどうしてもコンビニではないあったかい、人の作ったごはんが食べたくて食べたくてしょうがなかった。でも冷蔵庫にはまだ作り置きのおかずがあって、少しでも節約した方が良くて、なんてぐるぐる考えていた。が、結果としては王将入って餃子の炒飯とホルモンの味噌炒め食べた。千円以下でとても満足できて、何故か自分のことを少しすきだなと感じた。
欲を満たすことはその選択をした自身を褒めることに繋がり、お腹だけでなく自己肯定感を満たすこともできるのだと気付いたきっかけだった。

では、食によってどのように自己肯定感を補うのか。
例えば仕事で疲れて帰ってきた日。自分で週末に作り置きしていた惣菜が入った冷蔵庫を見て、「こういう日に作り置きがあったらすごく助かる!作り置きしておいた自分えらい!」
例えばダイエット中にどうしても甘いものが食べたくなった時。「糖質オフのクッキーと高カカオチョコレートをえらんだ!ちゃんとダイエット意識しながら甘いもの欲も満たせてえらい!」
例えば今日はもう何もしたくない夜。「Uber eatsを選択して、きちんとごはんを食べて休んでてえらい!」

食を通して心を補い、自分を尊重できる私に

私は選択を迫られた時に必要以上に不安要素について考えてしまう。これでよかったのか。あちらの方がよかったのではないか。上手くいったとしても、また次の選択の場面が来たら同じように悩む。

食は毎日の必須項目であり選択の場面でもある。食について考え、選び、時間を費やさなければならない。それは誰のためか。1人で暮らす私にとっては、私ただ1人のための行為なのだ。だからこそ、どんな選択をしても、その時の自分を尊重して生み出している以上、「自分を大切にしていてえらい!」行為なのだと思う。

自己肯定感を上げることは難しい。そんなに簡単には上がらない。でも食を通すとほんの少し簡単にできるのではないだろうか。もちろん毎回それを意識しなくても良いだろう。今私に自己肯定感が不足しているな。そう感じた時に、ふと思い出してみてほしい。

私は今日も食事をしている。空腹を満たしながら、栄養を摂取しながら、私は今日も自分と向き合って一つの答えを出したんだぞと、すり減ってしまった心を少しずつ補いながら。