今年の春就職した。研修の4月はあっという間で慌ただしく、けれども充実感もありつつ時は過ぎた。4月末、会社の健康診断を受けた。大きな病院を紹介された。
私は急性骨髄性白血病だった。
コロナ禍でひとりの待合室。医者の説明に「はい」と言うしかなかった
大学入学とともに上京し、東京で一人暮らしをしていた私は診断から2週間ほどで引っ越し、実家に帰ってきた。地元の大きな病院で治療をするために。
引っ越した次の日に地元の病院で検査を受け即入院。両親は引っ越しのために東京まで来てくれたので、コロナのこともあり病院に入るのが許されたのは私だけだった。
朝から検査し、気づけば外はもう薄暗く、医者からの説明を受ける頃には病院には誰もいなくなっていた。しんとした待合室で1人ぼんやりと座っていると診察室に呼ばれこれから始まる治療の説明を受けた。
引っ越す前からある程度覚悟はしていたものの、医者の口から発せられる、起こりうる最悪の事態についての説明。まるで「お前は死ぬんだ」と言われているかのような気持ちになった。
治療によって引き起こされる合併症や死のリスク、不妊の可能性。淡々と医者の口から発せられるショッキングな説明に私は「はい」と返事をすることしかできなかった。
取り乱して泣くこともなく、「現実を受け止めなければならない」と思っていた。周りの医者や看護師の目には私の姿は「若いのにたった1人で淡々と説明を受ける強い人間」に見えていただろうか。
治療を乗り越えられる気がせず、母に送ってしまったあのLINE
説明を受け、病室に案内された私は何も入院の荷物も持たずに病院へ来たため母に荷物を持ってくるようにお願いした。もう夜になっていて、薄暗い部屋でぼんやりとさっき説明されたことを頭の中で反芻させながら考えていた。
「生きるために治療をするのに死ぬかもしれないなんて。バカみたいに高い治療費をかけてもし死んでしまったら。わたしはこの治療をする意味があるのかな。どうせ死ぬなら治療なんかやめて死ねばいいのに」
大袈裟かもしれないがそんな風に思えてしまった。
そして、子どもが出来なくなるかもしれないということが、かなりショックだった。これまで子どもが欲しいと強く思ったことはなかった。ただ当たり前のこととして自分の未来にあるだろうと漠然と考えていたのだが、突然目の前から取り上げられると思うと、とてつもなく悲しく辛かった。
「生きたい」と思えなかった。力が湧いてこなかった。治療を乗り越えられる気がしなかった。わたしは母にLINEで「死にたい」と言ってしまった。
母からの返信はしばらくなかった。
もうすぐ全ての治療を終える。きっと思い出す母のお弁当の味
ほどなくして母から荷物が届いた。着替えと夕ご飯。東京から戻ってきて久々に食べた母のごはん。薄暗い部屋で1人お弁当を食べる私。
少し冷たくなってしまっていたけど、しょっぱい味の玉子焼き。
この玉子焼き、懐かしいな。母の作る味だった。母の作る弁当を口に頬張るたびに母の気持ちを考えてしまう。私が死にたいと言ってから、母はどんな思いでこのお弁当を作ったんだろう。
実家に住んでいた時に食べていたのと変わらない母の料理の味にわたしは溢れる涙をおさえることができなかった。
「死にたいなんて言わなければよかった」
私のために作られたお弁当は懐かしくて、母のあたたかさを思い出させるそんな味だった。
お弁当を食べ終わると不思議と気持ちが落ち着いて、私は母に「お母さんごめんね。ご飯食べたら気持ちが少し落ち着きました」と連絡した。
あれから約半年が過ぎ、私はもうすぐ全ての治療を終える。あの日から始まった過酷な日々の記憶は、あの日の母のお弁当の味とともに私の中に在り続けるだろう。