私たち夫婦には、ハンデがある。交際期間からわかっていたことである。見た目には全くわからないハンデである。
だからなのか、同じ境遇の人たちが書いてくれた本に対するAmazonレビューに傷つくこともある。
「病院に行け」「なぜ結婚する前によく話し合わなかったんだ」「理解できない」「なぜ結婚したんだ」「離婚すればいいのに」……大体こんな感じだ。

私と夫にはハンデがあるけど、私たちは「良い結婚ができた」と思っている

一方で、知性ある声にも心が波立つ。「本人たちが良いのならそれで良いと思う」。
……たぶん本人たちは良いとも悪いとも思っていなくて、どちらかと言えば他人からの良いとか悪いとかの評価を浴びている。
他人からの評価をどうにかしたい? 無理だ。きっと多くの人たちは自らが生きてきた中で得た、正しいと信じている価値観でしか人を計れない。
嫌ならそもそもレビューなど読まなければいいのだけど。というかそもそも私が書いた本ではないのだけど。だけど、そうだけど、正しいけれど、そうじゃない。私は他人に何と言って欲しかったのだろう。わからなかった。

夫は私の理想の人である。女友達に写真を見せると、10人が10人「良い人そう」と言うような……つまり「イケメン」とは異なる、そんな人で、結婚して3年経つ今も穏やかに一緒にいてくれる。
朝、私が植木を日に当たるところへ動かすと、夜、夫が暖かいところへ動かしてくれる。私が風邪をひくと早く帰ってきてお粥を作ってくれる。私が好きな甘くない梅干しを買ってきてくれる。記念日には、少しだけ贅沢をさせてくれる。私たちは、良い結婚ができたと思っている。

私たちは男と女で、夫婦であるが「セックスができない」

良い結婚をしたが、セックスをしたことがない。チャレンジはした。けれど貫通したことは交際期間を含め、一度もない。これが私たち夫婦の「ハンデ」である。
「なぜ?」と思う人に、聞きたい。手足があっても動かない人もいるし、目があっても見えない人もいる。その人たちに同じ質問をするだろうか。私たちは男と女で、夫婦であるが、セックスができない。

これを悩みと捉えたのは、結婚して少し経った頃である。義理の親から「孫の顔が見たい」と言われたのだ。
正直、子供を強く欲しいとは思っていない。濁した。それ以前に「夫婦はセックスをしているものだ」という、暗黙の了解が突然、私を覆った。それは学生時代に読んだ小説の鮮やかさとはかけ離れていて、重く乾いたものだった。
病院にだって行った。厳密にいうと、別の目的で受診して、もし話ができそうならと期待した。
「問診票に書いてある『既婚』で『男性経験無し』って、間違えてるよね?」
「いや、それが……」
言葉が出てこなかった。いや、それが……なんなのだろう。
「間違っていませんよ。むしろ相談したかったのです」と、普通に聞くとか「男性経験って何ですか?」と、ふざけてみるとか、なんでもいいから返せばいいのに。

私は夫と結婚したことを全く後悔していないし、今日だって色々と想像してから来たのに。私のことは私が一番よくわかっているのに。なのになぜ、私は私を肯定できないのだろう。
悔しかった。何から否定されたのかわからなかった。

他人に何と言って欲しいかわからないけれど、「私たちのままで」いさせて

あれから少し経って、私の状況を「未完成婚」と呼ぶということを知った。「貫通」すれば「結婚」は「完成」らしい。
何だそれ、と嫌悪したと同時に、定義付けされた言葉をもらえたことで「ああ、そうだったんだ」と安心したような気もする。
知らなかった。言葉が、ちゃんとあるんだ。
いつの間にか私は、私の中にあった「常識」と、急に関わることになった「知らないこと」を、自ら見比べていたのかもしれない。

他人から何と言ってもらいたいか。未だにわからない。けれど、私たちに私たちのままでいさせて欲しい。何から否定されたか。それは他でもない私自身の中にあった「常識」だろう。
不思議ではあるが、心がゆらゆらするとき、いつも到着するのは、夫に伝えたい言葉である。「私と結婚してくれて、ありがとう」。