忘れられない味。
はてさて、生まれて20年と3年ばかりの私の人生を思い返してみたところ、祖父が店で作ってくれた山盛りの五目チャーハンが浮かび上がってきた。

祖父母が経営する小さな中華屋は、駅前の喧騒から離れた集客の悪い地に建っている。だが料理の虜になった常連客が多く、いつも賑わっていた。身内贔屓かもしれないが、「隠れた名店」だったのだろう。

私がいつも座るのは、厨房の祖父を間近で見ることができる特等席

小学生の頃、よく両親とともに祖父母に会いに店に行った。中に入れば料理人が中華鍋を振るう音に、客たちの楽しそうな様子を感じ取ることができる。そして、
「いらっしゃいませぇ!」
と、出迎えてくれた祖母に挨拶し、ある席に向かう。
そこはL字型のカウンター席――縦書きの文おける鍵括弧の」を思い浮かべて欲しい。その書き始めの位置だ――で、私の特等席。ここなら、厨房の祖父を間近で見ることができるのだ。

祖父はお玉ですくった調味料を手際よく大きな中華鍋に入れ、具材を炒めていく。家庭用のコンロでは絶対出ないであろう火柱が上がるが、祖父は顔色一つ変えず、とても重い鍋を片手で軽々と扱った。振るうたびに宙に飛び上がったチャーハンは、再び祖父の持つ中華鍋に吸い込まれるように戻る。
そして皿に盛られたチャーハンが運ばれてきたとき、興奮は最高潮に達するのだ。

祖父のチャーハンはとにかく美味く、無限に食べられると思わせる逸品

五目チャーハンの具はネギ、卵、グリンピース、細かく角切りにされたチャーシューとナルトだ。卵の黄色に、ネギやグリンピースの緑、そしてナルトの渦巻き部分のピンクと見た目は華やかである。油でコーティングされた米は互いにくっつくこともなくパラパラで、調味料は何を使っているのかわからないが、とにかく美味い。
本当に美味しいものを食べると語彙力がなくなってしまうが、これを読んでいる方が思い浮かべたであろうチャーハンよりは、数段美味いと断言できる。無限に食べることができると思わせる逸品だ。

レンゲを使い無我夢中で食べていると、厨房と客席を仕切るカウンター扉を開け、祖父がやって来て尋ねる。
「美味しい?」

その問いに、満面の笑みで「おいしい!」と答えるのが常だった。今思えば、あの席に座っていたのは、祖父の調理姿を横から見れるだけではなく、扉の近くで祖父と話しやすかったからかもしれない。

そして現在、80を超えた祖父母は店の経営を人に譲り、引退した。店の名前や料理は同じだが、変わってから私は一度も来店したことはない。
祖父母がいなければ、それは全く別の店だからだ。いや、私は昔の店での記憶が上書きされることが怖くて行けないのだ。行ってしまったら最後、思い出がどこか変わってしまう気がして。
私に甘い祖父のことだ。「チャーハンを作ってほしい」とお願いすれば、喜んで作ってくれるだろう。だが、それはあの五目チャーハンではない。

同じ人が作る料理でも、場所、時間、食べる人により美味しさが変わる

仕入れていた材料と違うから? 
――違う。
私は、料理の味には目には見えないものも作用すると考えている。味というより、受け手の感じ方と言った方がいいか。同じ人が作る料理でも、場所、時間、共に食べる人によって美味しさが変わると思うのだ。そうなると、「愛情」や「空腹」がスパイスになるという考え方は、あながち間違いではないのかもしれない。

なら、私が求める五目チャーハンとは、客や調理風景と様々な情報を感じる店内で、祖父が作る姿を見ながら待ち、運ばれてきたのを頬張った瞬間の感動と幸福感――それらの要素が加わったものだと、今なら言える。

だから先ほども述べたように臆病な私は、その五目チャーハンの味を上書きされないように祖父のチャーハンはもう食べないと決めているのだ。腕の立つ祖父なら家で作っても近い味になるだろう。それが逆に怖い。あの店で食べたチャーハンだと、脳が勘違いしてしまうことが。

これが私にとって二度と食べることもできない「忘れられない味」で、「忘れたくない味」だ。